2007年3月18日(日)神の定められた時
いかがお過ごしですか。後登雅博です。
私達は、先のことを見越して色々な計画を立てます。ところが、必ずしも計画通りにことが運ぶとは限りません。むしろ、思いがけないことが起こってきたりします。このことをどう考える事が出来るでしょうか。コヘレトは言います。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」つまり、人生の出来事は、全て起こるべくして起こっている、というのです。私達の人生において、偶然と言うことはありません。なぜなら、全ては神の計画に従って起こっているからです。
とは言え、人生の出来事は、順序正しく配置されているのではありません。つまり、いつでもうれしい事には悲しい事が続き、悲しい事にはうれしい事が続く、というわけではないのです。次に何が起こるのか分からないのが、私達の人生です。「悲しみの次には必ず喜びが来るから」と言って人を慰めることができるほど単純ではないのです。むしろ、悲しみに悲しみが続くようなこともあるのです。
この次に何が起こるかわからない人生を、私達はいかにして生きることができるのでしょうか。そのカギは、先ほどの「コヘレトの言葉」にあります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」人生の出来事の背後には、時を定められた神がおられるのです。私達はその方を、イエス・キリストの父なる神様、と呼びます。この方が、全てのことを支配し、計画しておられるのです。そこから、私達には理解できないことにも、意味があると信じることができるのです。何故なら、この方は私達のためにひとり子を十字架につけるほどに、私達を愛してくださっているからです。私達を愛してくださる方が、すべての時を定めておられるのです。
コヘレトは天の下には定められた時があると言いました。続けて、どのような時があるかを言います。「生まれる時、死ぬ時。植える時、植えたものを抜く時」さらに色々なときを並べていくのですが、「生まれる時」を一番初めに置いています。生まれなければ、何事も始まらないからです。皆さんが生まれたとき、それは早朝であったり、深夜であったり様々でしょう。また、出産予定日と言うのがありますが、それより早かった人も、遅かった人もいるでしょう。それら全ての時は、神が定められた時なのです。生まれる時を自分で遅くすることも、早くすることもできないのです。命はすべて神の御手にあるからです。神が定められた時に、人は生まれ、人はこの世を去って行くのです。
なかには、「好きで生まれてきたわけではない」と言う人もいるかもしれません。そのような方は、人生に失望されているのかもしれません。しかし、この定められた時を、自分の自由にならないといって嘆くのか、それともここには神の配慮があると見るのかでは、大きな違いがあります。人生は一度きりであり、やり直しが利きません。ですから、今の時とは、二度と帰ってこない大事なときです。しかも、神の計画のうちに備えられた時なのです。
そして、何よりも覚えていただきたいのは、命を与えたのは神であるということです。神に愛されて、私達は生まれたのです。自分で自分の人生の意味を見出せないとしても、そこには神が与えた人生の意味があるのです。どんな時であったとしても、意味があるのです。そこには神の計画があるからです。そして、神を見出した人の生涯は、決して空しくなりません。ですから、私達が生きるためには、全ての時を定められた方を、知る必要があるのです。私たちを愛して、命を与えてくださった方を知る必要があるのです。