2007年3月11日(日)神を見出す

いかがお過ごしでしょうか。後登雅博です。先週に引き続き、「コヘレトの言葉」を学びます。

コヘレトはつぶやきます。「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」彼は実に多くの財産を持っていたようです。誰もがうらやむような富と、大きな権力を持っていました。それらの物を用いて、自分の思うままに生きてみました。ところがどうでしょう。その結果は、「見よ、それすらも空しかった。」という告白に終わったのです。コヘレトはどれだけ多くのものを手に入れても、心を満たすことが出来なかったのです。それどころか、ついには「わたしは生きることをいとう」とさえ言うのです。彼は、完全に人生に絶望してしまいました。何を手にしても、「空しい」と感じるしかないからです。

それだけに、コヘレトの次の発言には、ただただ驚くばかりです。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの」ここで一大転換が起こっています。労苦も神の手からのもの、と言うのです。この世界は、神が与えてくださった分け前である、と言うのです。コヘレトは絶望していました。しかし、そこから神に向かっていくのです。
どんなに絶望しても、神にこそ希望があると見出したのです。それは、まだ小さな希望であったかもしれません。彼はこの後も「空しい」という発言を繰り返すからです。しかし、神を求めるものに対して、神が沈黙し続けられることはありません。世界が神の支配の下にあると知っている人は、様々な絶望に対して、耐える力を神からいただくことが出来ます。全ての事には時があり、それらを定めているのは神である、と知るからです。

コヘレトはすべてのことに絶望しました。しかし、人は絶望してもなお、生きることが出来るのです。彼が生き続ける事が出来たのは、絶望に満ちた世界であっても、その世界を支配しておられるのが神であると、見出したからです。
「賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」コヘレトは神の前には、賢者も愚者もないことを見出しました。全ての人がやがて死を迎えます。コヘレトを死の問題が捕らえているので、彼は生きている間に、喜ぶことが幸いであると考えます。死んだら終わりなのです。彼は完全に絶望しましたが、しかし、そこから神を見出しました。もしもコヘレトが生きることをいとうまで絶望しなかったら、神を見出さなかったかもしれません。とすると、神は絶望の中にもおられるということになります。私は、コヘレトの絶望の中にキリストを見出します。

つまり、キリストこそ、父なる神様から見捨てられるという絶望を体験されたのです。この神から見捨てられるという絶望は、コヘレトも私達も経験することはありません。私達が神を見捨てることはあっても、神が私達を見捨てることはないからです。そして、私達がまだ罪人であった時、神はキリストを私達のために与えてくださいました。私達が神の恵みに気付いていない時に、神の恵みがあったのです。私達に与えられている、このキリストに勝る恵みはありません。私達は世界に絶望することがあっても、神の恵みを疑うことのない様にしましょう。神の恵みこそが、私達を生かす力であり、神の恵みは、コヘレトが求めた物の様には、無くなる事がないからです。