2007年1月28日(日)旅の目的
おはようございます。高知教会の久保浩文です。
皆様は旅がお好きでしょうか。毎年年末年始とかゴールデン・ウィークになると、空港のロビーや駅のホームは、両手に大きな手荷物を抱えて故郷や観光地に向かう人々で埋めつくされます。一昔前に比べると、旅行の手段も、鉄道、船、飛行機、マイカーと多様になり、ずいぶん便利になりました。
私のはじめての一人旅は、高校生の夏休みでした。正確に言うと、小学校時代からの友人との二人旅だったのですが、高松から宇高連絡線に乗って京都、奈良を旅行しました。時刻表やガイドブックで目的地までの交通手段と乗り換え時間、到着時刻などを調べ、万一に備えて連絡先を記したもの、保険証のコピーを用意し、荷物を一つ一つ念入りに確認しました。家人に見送られていざ出発した後も、乗り換えの度に乗車券に記された列車名と時刻を何度も見返し、座席の指定番号に自分の席を見つけた時はほっと胸をなでおろしたものです。京都に着いてからも通りすがりの人に道順や停車場などを聞きながら、行く先々でいろいろな人に出会い、助けられて旅を楽しむことができました。
私達の人生も一つの大きな旅のようなものであり、私達は、生涯をかけて旅人としての道のりを歩んでいるのではないでしょうか。人それぞれ、この地上にあって、いろいろな経験をし、数え切れないほど多くの人たちとの出会いと別れがあります。人生山あり、谷あり、喜びもあり悲しみもあります。私達の人生の行き着く先はどのようなところでしょうか。ただ単に、何気ない平凡な毎日が過ぎて行くに身をまかせるだけだとすれば、私達の人生は、何と空しく、意味のないものになってしまうものでしょうか。
聖書は、私たち人間の生きる目的について、「『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて」と記しています。私達がこの地上の人生の途上にあって体験するであろう全ての事を通して、神は、私達人間が、創り主であられ、支配者であられる神を知り、信じることを求めておられます。
かつて、イスラエルの民たちは、奴隷として暮らしたエジプトの国を出て、神が与えると約束して下さった土地カナンに向けて旅をしました。その旅は決して楽なものではなく、飢えと渇きに悩まされながら、荒涼とした荒野をただ神に示されるまま歩む、というものでした。イスラエルの民は、何か不自由を覚える度に不平、不満、愚痴をこぼしました。その度に神様は、その必要を満たして下さいました。イスラエルの民の荒野の旅は40年の長きにわたりましたが、神様に全てを委ねて旅を続けている限り、道にまようことなく、様々な危険からも守られて、無事に目的地に着くことができました。聖書にはこう、あります。
「あなたの神、主に導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。・・・主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る全ての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
数々の苦しみも、戦いも、多くの出会いも、神様を知る、というただ一つの事のためであった、というのです。神を知ることによって、日々の喜びと悲しみ、汗と涙の一つ一つが意味のあるものとなります。私達も、今日からの人生の全てを神に委ねて、神を信じて生きるならば、決して悔いのない有意義な人生を送ることができるのです。