2006年11月19日(日)担わなければならない苦しみ
おはようございます。山田教会の泥谷ちひろです。
私たちはみなどんなに幸福そうに見えても、何か一つ位は担わなければならない重荷を持っていると思います。私は幸せ、何もかも恵まれているというような方がたまにおられるのですが、そのような人でも長い一生の間には必ず大波にのみ込まれそうになることがあると思います。どんなにしてもある苦しみから抜け出せないこともあります。私自身青春時代にそのような経験をしました。けれどもいつも神さまが共にいて重荷を負って下さると知らされて、私一人で苦しんでいるのではないと思うと気持は軽くなりました。人には恥ずかしくて言えないこと、辛過ぎて言えないことも祈りによって神様に訴えることが出来ました。夜おそく、聖書を読み、祈り、神さまに訴えることを繰り返している中に、東の空がしらみ始めたこともありました。
時が経ち、自分の心に平安が与えられた時、かえってもっとひどい状態で苦しんでいる人々のことを思い、私の知らないところで苦しんでいる人々のために祈ることが出来るようになりました。そして、真に神様を愛し神さまを信じる人が言われるように、「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。」と告白出来るようになりました。これは詩編119編71節にあります。このことばは拉致問題で困難を極めておられる横田めぐみさんのお母さまの告白でもあります。続けて本当に神さまにより頼むことの出来る人は幸いです。長い長い間苦しみを受け乍ら、人を怨まず、『神さま、あなたのみ心は何なのでしょう。私がこんなに辛い悲しい思いをしているのをご存じでない筈はありません。主よ、この苦しい思いを取り去って下さい。私がこんなに苦しい悲しい思いをしなければならないのは何故でしょう。神さまの深い思いは私には分りません。あなたの御心を教えて下さい。』と、このように祈られるのです。
ここで身体的に障害を持っておられる方のことを考えて見ましょう。生まれる時から障害を受けておられる方、又、病気や不慮の事故で障害を受けられた方、そういう方々は心の苦しみの上に身体的な重荷を持っておられるのです。パラリンピックに出られるような方、又、その他特別な才能を持っておられる方がおられ、健常者以上のことをしていらっしゃる方々もおられます。しかし、どれほどの努力を積み重ねてこられたことでしょう。特別な才能がなくても神の愛はすべての人に注がれ、回りによき友となる助け手を与えて下さいます。そういうことを通して『苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。障害を持っていなかったらこんな出会いはなかったでしょう。』と言われる方に何人も出会いました。担わなければならない苦しみも神さまは善き友を送って主の愛を示して下さいます。はばからずにそういう交わりに飛び込んで下さい。
旧約聖書のイザヤ書55章8節と9節にこのようなことばがあります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、高く超えている。」
もしあなたが重荷を負って苦しんでいらっしゃるなら、迷わず共に重荷を負って下さる神さまに近ずき、元気づけ慰めて下さるみことばに出会うために是非教会にいらして下さい。
主の御慰めをお祈りいたします。