2006年10月29日(日)幻のない民
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の29章18節にこんな言葉があります。
「幻がなければ民は堕落する。 教えを守る者は幸いである。」
ここで「教え」と訳されている言葉は「トーラー」というヘブライ語です。それは神の律法を指す言葉です。旧約聖書の民にとってトーラーはもっとも大切な教えでした。後に「トーラー」という言葉は旧約聖書の主要部分を指す言葉ともなりました。そういう意味で「トーラーを守る者は幸いである」というのは、旧約聖書に立つ者たちにとって常識的な教えです。律法を守る幸いについては、旧約聖書詩編の中でも繰り返し説かれています。そもそも、詩編の最初の詩は神の律法を愛する者の幸いを歌っているほどです。
では、この箴言が取上げている「幻」とは何でしょうか。「律法」と対比して「幻」といっているのだとすれば、それは神から与えられる幻のことでしょう。具体的に言えば、時々の必要に応じて神が授けてくださった預言の言葉です。
神は預言者に言葉や幻を与えて、これを旧約の民に示すようにしばしばお命じになりました。預言者は神から預かった言葉を民に伝えて民を導いたのです。
神の預言はしばしば、旧約聖書の民が本来あるべき道からさまよい出たときに語られました。どう歩むべきか、その道を見失った時に、預言者の口を通して神は彼らを正しい道に連れ戻したのです。ですから、「幻がなければ民は堕落する」といわれているのもまったく道理です。
では、今の時代はどうなのでしょうか。新約聖書にあるコリントの信徒への手紙を書いたパウロは「預言は廃れ、異言は止む」(1コリント13:8)と記しています。なるほど、今の時代にはもはやかつてのような預言者はいません。それでは、民は堕落するままにまかされているのでしょうか。けっしてそうなのではありません。むしろ、聖書の中にこそ神の預言の言葉は余すところなく保たれているのです。この聖書によって神の幻を正しく抱くこと、そのことが大切なのです。
ところで、この「幻」という言葉は、英語ではビジョンといわれています。世の中では何かにつけ将来のビジョンを持つことの大切さが言われています。5年後のビジョン、10年後のビジョンをしっかり持って歩むことが成功の秘訣ともなるでしょう。なるほど、ビジョンを持たなければ進みようもありません。進みようがなければ、どこにたどり着くのかも分かりません。
けれども、本当に大切なことは将来のビジョンを持つか持たないかという問題ではないのです。どこからどんなビジョンを引き出してくるかなのです。箴言が言っているビジョンとは神が指し示すビジョンです。聖書に従ってビジョンを見ること、聖書に従ってビジョンを持つことが大切なのです。そうでなければどんなビジョンも民を堕落へと導いてしまうのです。
わたしたちが生きる世界にほんとうに必要なことは、聖書の教えにもう一度立ち返ること、そして、聖書に記された神のビジョンをもう一度心に描くことです。そうするときにこそ、人は幸いな人生を歩むことが出るのです。
あなたも是非聖書を紐解いてみてください。聖書には人間が向かうべきビジョンが鮮やかに記されています。