2006年10月8日(日)神に委ねる
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の16章3節にこんな言葉があります。
「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ」
人間の素晴らしいところは何かといえば、計画を立て、計画に従って事を成し遂げていくことです。計画を立てるということは未来を描くことです。未来を描くということは、未来をどうしたいかという明確なヴィジョンを持っていることです。
これは他の動物たちには真似のできないことです。犬やネコが遠い将来のヴィジョンを考えて、今を計画的に生きているとは思えません。人間だけが未来のビジョンを描き、計画を立て、それを実現すべく働く能力が与えられているのです。それは人間にとってとても素晴らしいことなのです。
けれども、未来をどうしたいかというビジョンを人間は持つことができたとしても、それを実現へと導くためにはなお様々な不確定な要素が付きまとうものです。すべての計画が完成へと至るわけではないことをわたしたちは知っています。それは計画自体に明らかな無理があったという場合もあるでしょう。しかし、大半は読むことのできない未来のためです。予想外の事が起るということは避けることができません。どんなに未来を予測し、未来を切り開こうとしても、人間にできることには限界があるからです。
もし、予測できない未来に不安を抱き、あらゆる自体を想定して、どんなことにも対処できるように生きていかなければならないとしたら、それこそ一時たりとも落ち着いてはいられなくなってしうまうことでしょう。未来を描く能力があるがために、かえって不安になってしまうという事態に陥ってしまいます。それではせっかくの人間の能力も人間にとって少しも恵みにはならないのです。
だからといって、ただ動物のように本能の赴くままに生きることが幸せかというと、そうでは決してないのです。イエス・キリストは空の鳥や野の花を見なさいとはおっしゃいましたが、空の鳥や野の花になれとはおっしゃいませんでした。
また、未来を知ろうとするあまり、占いや超能力と称するものに頼るのも一時のごまかしでしかありません。それは予測できない未来に根拠のない安心を与えようとしているに過ぎないのです。
聖書はこの人間の限界に対して「あなたの業を主にゆだねよ」と述べています。ここで言われている「ゆだねる」とは、岩を転がして動かすことを指す言葉です。描いた未来は時としてわたしたちを不安に陥れたり、いらいらさせたりします。あたかも大きな岩のようにどっしりわたしたちの上にのしかかってくることもあるのです。
しかし、聖書はその岩を神ものとに転がせと命じているのです。その岩を一人で抱えて苦しむ必要はないのです。人間には予測もつかないことなのですから、その不安を人間が抱え込む必要はないのです。すべてを神に転がし、委ねればよいのです。そうするときにこそ、かえって計画は確かなものとなるのです。
この箴言よりもずっと後の時代を生きたパウロという人は、フィリピにある教会に当てた手紙の中でこのように記しています。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4:6-7)