2006年10月1日(日)朗らかな心
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の15章15節にこんな言葉があります。
「貧しい人の一生は災いが多いが 心が朗らかなら、常に宴会にひとしい。」
豊かなことと貧しいこと、どちらが良いかと尋ねられれば、誰しも豊かなことの方と答えることでしょう。特に経済的に貧しい暮らしを経験した人は、お金やものの有り難味は痛いほど感じているはずです。また、そうであるからこそ、近代の日本はここまで目覚しい発展をしてきたのだと思います。そして、世界のあらゆる国の人々は経済大国に見習い、追いつこうと必死です。
しかし、暮らしが楽になることと、心の内側が満たされることとは別の問題であるということを知っているものわたしたち人間なのです。
きょうの箴言の言葉は「貧しい人の一生は災いが多い」と始まります。ここでいう「貧しい人」が文字通りの経済的な弱者を指しているのか、あるいは比喩的な意味で「神にしか望みを置かない敬虔な者」を指すのかは議論の余地があるかもしれません。「敬虔な者」ととれば、信仰深い者であるがゆえに受ける回りの人々からのひどい仕打ちのことを言っているのかもしれません。敬虔な者にはそういう意味での災いはつきものです。
文字通りの意味に取るとすれば、まさに経済的な貧しさからくる様々な苦しみを念頭においての言葉でしょう。着るのも食べるもの、住むところに事欠く苦しみや、病に襲われても十分な治療を施すことのできない災いのことです。
しかし、この聖書の言葉は、「だから貧しさから脱却しましょう。経済的な力を手に入れましょう」とは続きません。むしろ貧しさの中にあっても満ち足りる秘訣を教えているのです。
「心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」
これは、まったく当たり前のことを言っているように思われるかもしれません。誰だって心が朗らかであれば、苦労など感じるはずもありません。そして、要するに気も心も持ち方次第で、人生は楽しくもつまらなくもなると言っているに過ぎないように思われるかもしれません。
なるほど、気持ち次第で辛い人生も楽しく送ることができるというのは一面では正しいように思われます。ただ、問題はどうやって朗らかな心を持つことができるのかということでしょう。
この言葉に続いて、箴言はこう言っています。
「財宝を多く持って恐怖のうちにあるよりは 乏しくても主を畏れる方がよい。」
そうです。この箴言の言葉の中心には聖書の神がいらっしゃるのです。あらゆる恐怖も苦しみも、聖書の神を畏れ、聖書の神を中心に据えることで、心に平安がもたらされるのです。ただ財宝をたくさん蓄えたからといって、それで恐れや不安は亡くなりはしないのです。神から来る平安で満たされるとき、良い心、朗らかな心になれるのです。
この箴言よりもずっと後の時代を生きたパウロという人は、フィリピにある教会に当てた手紙の中でこのように記しています。
「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。…わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:11-13)
神が平安を与えてくださり、わたしたちの心を朗らかにしてくださるのです。