2006年8月27日(日)神を尊ぶことは人を尊ぶこと
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の14章31節にこんな言葉があります。
「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。 造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ」
福沢諭吉の『学問のススメ』の中に有名な言葉があります。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉です。案外知られていないのは、この言葉のあとに「と言えり」という言葉が続いていることです。つまり、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を福沢諭吉はどこかから引用してきているのです。では、どこからこの言葉を引用してきたのかというと、アメリカの『独立宣言』ではないかといわれています。そこにはこう記されています。
「われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造り主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由、および幸福の追求が含まれることを信ずる。」
このアメリカの独立宣言はキリスト教的な有神論的世界観・人生観を非常に良くあらわしています。「平等」という概念も「天賦の権利」というものも、ともにあらゆるものの造り主である神の存在を前提としているということです。神が人間を平等に造り、神が人間に生命と自由と幸福追求に対する権利を与えられたという考えです。
人間の平等性が人間によって侵害されるということは、言うまでもなく、人間をお造りになった神への冒涜と考えられるのです。逆に真の平等性の実現は造り主である神への畏れなくしてありえないのです。
きょうの箴言の言葉は「弱者を虐げる者は造り主を嘲る」と記しています。社会的な弱者がこの世の中に存在するということは直ちに変えることができないことかもしれません。病弱なために働けない人、そのために経済的に困窮している人、そういう人々が数多く存在するのが現実の社会です。しかし、その現実に対して、それを仕方のないこととして放置したり、さらに追い討ちをかけたりすることは、彼らの造り主をまさに嘲ることなのです。それらの人々をお造りになったお方も、このわたしをお造りになったお方も、同じ造り主であるという事実を畏れをもって受け止める信仰が大切です。神はこの平等の事実を見える形で具現化して行くことを人間一人ひとりに期待していらっしゃるのです。神はただ人を規格品のように同じ規格で製造されたのではなく、それぞれに異なる才能と資質を与えながらも、しかし、誰一人として幸福であることを妨げられないように生きることができる世界を神は望んでいらっしゃるのです。そうであればこそ、この造り主の御心を尊び、自由と平等を実現していくことは、神によって造られた人間の責任なのです。弱者を虐げる者は造り主を嘲っているのだということを心に深く刻む必要があるのです。
また、きょうのの箴言の後半は「造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ」と記されています。
イエス・キリストは「神を愛し、人を愛すること」…この二つがもっとも大切な戒めであるとおっしゃっています。この二つはもっとも大切な戒めであると同時に相互に関連しあっているのです。神を愛さないものは隣人を愛することはできないのです。逆に神を愛し、その御心を尊ぶものが隣人を心から愛することのできる者なのです。