2006年8月20日(日)畏れと高慢
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の14章16節にこんな言葉があります。
「知恵ある人は畏れによって悪を避け 愚か者は高慢で自信をもつ」
無神論者であるということが、日本では一種のインテリジェントの象徴であるかのように思われていることがあります。知識人は神や宗教など信じないものだ、といったことがまことしやかに信じられています。こういう考え方の影響に置かれていることはとても残念なことです。真面目に宗教や信仰について考える機会を奪っているのです。
しかし、世界に顔を向けると、これとは正反対の考えをもった人々がたくさんいます。ユダヤの世界では愚か者こそが「神はいない」と心のうちに言うのです(詩編14:1)。また、インドネシアでは宗教を持たない人間はどうやって自分自身を律するのだろうかと訝しがられます。人間の理性や意志がほんとうに自分自身を律する最高の基準とはなりえないと考えられているのです。
さきほど取上げた箴言の言葉は面白いこと言っています。
「愚か者は高慢で自信をもつ」
自分自身の確かさを信じる者こそ愚か者なのです。それは手がつけられないほどに高慢であることもあるのです。
もちろん、この言葉は人類の英知や学問的な探求の成果を真っ向から否定している言葉ではありません。前半で述べられていることと対になった言葉です。前半ではこう述べられています。
「知恵ある人は畏れによって悪を避ける」
つまり、人はいかにして悪を避け、善を選び取っていくのかということと深く関わるテーマなのです。あるいは言葉を変えれば、人はいかにして自分自身を倫理的に律することができるのかという問題なのです。
箴言の言葉は言います。それは「畏れによって」であると。
ここで言う「畏れ」と言うのは、いろいろな意味が含まれているでしょう。必ずしも「神への畏れ」と言うことではないかもしれません。しかし、箴言は「主を畏れることは知恵の初め」(1:7)と教えているのですから、まず第一義的には、聖書の神への畏れが人の倫理を律していくと考えてよいでしょう。こうした神への畏れは、生きるということに対しての真摯な思いを生み出すという意味で、自分や他人の人生に対する畏敬の思いをも生み出すものです。また、生命に対する畏れの思いもそこから生み出されていくことでしょう。そうした畏れのすべてが、人を悪しき選択から離れさせ、正しい生き方へと導いていくのです。
それに対して、そのような畏れに欠ける生き方は、自分自身が世界の中心となり、自分の判断が絶対化されていく危険を持っているのです。そのことを指摘して、この箴言の言葉の後半は「愚か者は高慢で自信をもつ」と述べて、その危険性を指摘しているのです。
畏れを抱かない無謀で自己絶対化の決断がどれほど人類を悩ましてきたか、歴史が証明するところです。自信に満ち溢れた高慢な独裁者や専制君主はいうまでもなく、家庭や学校や地域の社会でも、畏れを抱かない者が支配的であるところに、間違った選択がなされる危険があるのです。それは教会の中でも同じです。真の畏れをもってするのでなければ、教会ですら正しく立つことはできないのです。