2006年8月13日(日)死に至る道
おはようございます。山下正雄です。
旧約聖書箴言の14章12節にこんな言葉があります。
「人間の前途がまっすぐなようでも 果ては死への道となることがある」
この言葉は前途有望な他人をやっかんでいるのではありません。他人の成功を妬んでこう言っているのでもありません。また、この言葉はどうせ頑張っても死ぬだけだと、人生を悲観的に見ているのでもありません。死に至る道を歩んでいるかもしれないから、人生には意味がないと言っているのでもありません。そうではなく人間の判断がいかに不甲斐ないものであるかを言っているのです。
人は誰しも自分が真っ直ぐな道を歩いていると自信を持っているものです。少なくとも他人よりは自分の方が正しい道を歩んでいると思っているものです。たった今もこの番組を聴きながら、そんなことはあるもんかと批判的に耳をそばだてている人もいることでしょう。自分の正しさに自信を持つということは決して悪いことではありません。しかし、その自信が本当に根拠のある自信であるのかどうか、そのことをいつも吟味する必要があるのです。
傲慢になればなるほど、裸の王様のように自分の本当の姿が見えなくなっていく危険があります。。まっすぐだまっすぐだと思っていた道が、破滅と死に至る道だということもありうるのです。自分の目に真っ直ぐだと思えることでも、そうではないことがあることを知っておかなければならないのです。自信を持つと同時に畏れの心も抱く必要があるのです。
あるいは大多数の正しさを信じて歩む生き方も当てにはなりません。確かに世界の国々で正しいとされてきたことは、正しいからこそ多くの人に受け容れられていたということもあるでしょう。実際、そうであることが多いことは分かっています。しかし、それでも人間はいつも正しい判断を下しているとは限らないのです。目先の利益に溺れることもあります。欲望が判断を狂わすこともあります。ただ反対するのが面倒くさいから賛成に回ると言うこともあるのです。そんな人たちがいくら一致した意見にまとまったとしても、それはその意見の一致の正しさを証明してはいないのです。罪深い人間の判断とはそれほどに不甲斐ないものなのです。
「人間の前途がまっすぐなようでも 果ては死への道となることがある」
この言葉はいつも心のうちに刻んでおくべき言葉です。どんなに真っ直ぐに見えても、死にしか至らない道があることをわきまえておかなければならないのです。そういう畏れを心の内に抱きながら、謙虚に自分の人生に向き合うことが大切なのです。
人生とは最後まで生きてみないとわからないことがたくさんあるものです。だから、希望をもって生きることが空しいというのではありません。そうではなく、だからこそ、絶えず自分の人生の歩みを吟味しながら、ほんとうにこの道が真っ直ぐな道なのかを問いつづけなければいけないのです。今の自分の成功に埋没してしまってはいけないのです。
逆に悲観しすぎてもいけないのです。何もしないうちから自分の人生の果てが死であることを断言してもいけないのです。大切なことは、人間の判断の不甲斐なさをいつも心に留めながら、謙虚に真っ直ぐな道を探すことなのです。
傲慢と悲観とを捨てて、神の御前に畏れをもって真っ直ぐな道を探しつづける生き方を、この箴言の書は知恵ある人間の生き方であるとしているのです。