2006年5月21日(日)「神のうちにある満足感」
旧約聖書箴言の11章23節にこんな言葉があります。
「神に従う人の望みは常に良い。 神に逆らう者の期待は怒りに終る」
「神に逆らう者の期待は怒りに終る」とは一体どういう意味なのでしょうか。神に逆らう者の期待や望みを、神は怒りをもって阻止されるということでしょうか。それとも、神に逆らう者たちは、いつも怒ってばかりで、まるで、怒ることしか望んでいないようだということでしょうか。あるいは、神に逆らう者の期待は、結局神によって挫かれるので、彼らは悔しさで怒りに震えるということなのでしょうか。
このわずかな言葉だけからは、確かにこの短い箴言の言おうとしていることを捉え尽くすことは無理かもしれません。
実は今お読みした新共同訳聖書の翻訳では「神に逆らう者の期待は怒りに終わる」でしたけれども、原文には「終わる」という言葉が書いてあるわけではありません。ただ単に「義人の望みはただ善きことだけ、悪しき者の期待は怒り」とあるだけです。
わずかの言葉だけであればこそ、ここに込められた意味を探求し、味わう楽しみがあるのだと思います。
なるほど旧約聖書の中には、神に従う義人は祝福され、よきものを手に入れることができるという教えがあります。反対に神に逆らう者には神の怒りがおよび、神の祝福に与ることができないという教えがあります。そういう背景からこの個所を読むとすれば、正に神に従う義人は豊かな祝福を得、悪しき者は裁きを受けるということだけの教えのようにも取れなくはありません。
しかし、なぜ神に従う正しい人は善きものをいただくことができ、そうでない者はそれをいただくことができないのかと考えて見ると、この箴言の言葉はもっと深みを帯びてくるように思うのです。
この箴言が前半で言っていることは「義人の望みはただ善きことだけ」ということでした。つまり、神に従う正しい人はそれ以外のものを望まないわけなのですから、受け取るものも善きことだけなのです。つまり神に従う人は自分が望んだよきことを神から受けているのです。もちろん、人間は神のみ心がどこにあるのかが分からずに、神のみ心とは違うものを期待し、望むこともあります。しかし、神に従う人は、祈り求めたものの結果がどうであれ、受け取るもののすべてを神からの善き贈り物として受け容れているのです。
しかし、悪しき人はどうかといえば、そうなのではありません。彼が期待することは彼にとって都合の良いことであるかもしれませんが、神の目には善きこととは限りません。悪しき者の期待は、彼が期待した通りには実現しないのです。もちろん、そこまでは神に従う人にとっても同じことかもしれません。しかし、神に逆らう悪しき人にとっては、このような自体は受け容れがたいのです。期待通りに行かないことで苛立ち、怒りさえ抱くのです。
聖書の神は決して意地悪な神なのではありません。神に従う者を可愛がり、神に逆らう悪しき者をないがしろにするようなお方ではないのです。むしろ、イエス・キリストが語っていらっしゃるように、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、雨を注がれる方です。しかし、神に従う人にはそれが恵みの太陽であり、雨であるのに、自分に都合の良い期待だけを抱く悪しき者には、同じことが不愉快な晴れだったり、雨だったりするのです。