2011年8月31日(水) イエスを信じる者は死なない? 東京都 M・Kさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのM・Kさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「イエス・キリストのお言葉に『わたしは、復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる』(ヨハネ11:25)とか『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』(ヨハネ11:26)とか、ありますが、これはどういう意味でしょうか。『決して死ぬことはない』とか『死んでも生きる』とか、よく意味が分からないのですが、よろしくお願いします。」

 M・Kさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。聖書を読んでいて分かりにくいことの一つに、「生と死」の問題があると思います。あるいは「肉体の命」と「永遠の命」、「肉体の命」と「霊的な命」の問題があると思います。

 それらが分かりにくい理由は、この世の中で一般的に「生と死」の問題と言えば、肉体的な「生と死」のことを指していて、それ以外の「生と死」という問題についてはほとんど取り上げることがないからです。もちろん、肉体的な「生と死」の問題については、もう知りつくされているのかというと、決してそうではありません。それですら分からないことがたくさんあります。
 例えば、生命はなぜ誕生し、なぜ死を迎えるのか、など誰にも答えることができません。そもそも生命とは何か、という質問にさえ答えることはとても難しいことです。
 ただ、正確には答えることができないとしても、「生きているか、死んでいるか」という判断を誰もがある程度は下すことができます。それは経験的に「心臓が止まっている」「息をしていない」「冷たくなっている」などの特徴から判断しています。もっともこれは動物の個体の話で、細胞の死や植物の生命となるとまた話は別です。

 ところで、こう言っているわたしも、実は肉体の命についてすら、よく知らないというのが正直なところです。ほんとうに素朴な意味で、「生きている」とか「死んでいる」という言葉を口にしているにすぎません。そして、ほとんどの人にとって「生と死」の問題は、これ以上のことではないように思います。

 さて、そういう素朴な意味での「生と死」という考えからすれば、イエス・キリストがおっしゃることは、まことに理解しがたいことだと思います。というよりも、場合によっては明らかに死の定義とは矛盾していると感じてしまうだろうと思います。

 一般的に「死」と言えば、生活機能が不可逆的に失われてしまったことを意味しています。つまり、もうもとの通りには戻らないということです。ですから、「死んでも生きる」というイエス・キリストの言葉は、ほんとうに死んだのならあり得ないということになってしまいます。

 ところで、先ほどの死の定義ですが、つまり、「死とは生活機能が不可逆的に失われてしまったこと」という定義からすると、植物の種のように何百年も活動がなく、たとえその辺りの石ころと同じように見えても、種は死んでいるとは言わないのです。「大賀ハス」として知られるハスのように三千前年もの眠りから覚めて、見事に花を咲かせることがあるからです。

 ところが、ご存じかもしれませんが、イエス・キリストの言葉には種をめぐるこんな言葉があります。

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)

 パウロも同じようにこう言っています。「あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です」(1コリント15:36-37)。

 こうした表現は、先ほどの「死」の定義からいえば、明らかに間違っているということになってしまします。この世の常識では、種は死んでいるのではなく、休眠しているにすぎないからです。

 ところが、さらに面白いことに、これとは逆に聖書には人間の死を「眠り」として描いている個所があります。もちろん、それは日本語の「永眠」というのとは違います。「永眠」というのは永遠に眠り続けることですから、聖書が言う「眠り」とは違います。聖書が「死」を「眠り」と描くのは、やがて眠りから覚める時が来ることが前提にあるのです。

 さて、先ほどの種の話では、この世の人たちは、「種は眠っているだけだ」と言います。そして、肉体の死については、決して「眠っている」などとは言いません。しかし、聖書ではこれとは反対に、種の休眠を「死」と呼び、人の「死」を「眠り」と呼んでいるのです。
 つまり、この世の常識は聖書の世界とはまったく違ったように物事を理解しているのですから、イエス・キリストの言葉が分かりにくいとしても仕方のない話です。

 さて、ご質問の個所に話を戻しますが、イエス・キリストは兄弟ラザロを病気で失ったマルタに対してこうおっしゃいました。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 この場合、「死んでも生きる」という言葉を、病気で亡くなったラザロについてあてはめて考えれば、死んだはずのラザロが生き返る、という意味にも取れます。そして、実際、このあと、ラザロはイエスによって死者の中から復活させられます。
 しかし、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは、同じようにキリストを信じて亡くなった者が、ラザロと同じように生き返るということではありません。実際、ラザロは生き返りはしましたが、生き続けはしませんでした。ラザロが二度目の死を迎えた時点で、イエス・キリストの言葉は既に力を失っていることになります。
 しかし、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは、単に肉体の死と命の問題ではなく、神に対して生きた者であるかどうかという問題です。聖書によれば、人間の肉体の死は、罪の問題と切り離して考えることはできません。人は神の前に罪を犯し、霊的に死んだ者であるからこそ、肉体の死も避けることができないのです。しかし、キリストを信じ、救い主として受け入れる者には、神の御前で生きる霊的な命が約束されているのです。その者は、たとえ肉体の生命が終わりを迎えたとしても、なお、神の前で生き続ける命が与えられているのです。そう言う意味で「死んでも生きる」とキリストはおっしゃっているのです。

 そして、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」とは、何時までも肉体の死を味わわないということではありません。神の御前で生きる命、永遠の命のことをキリストはおっしゃっているのです。つまり、この肉体の命のあるうちにキリストを信じる者は、必ず永遠の命を持つことが約束されているのです。