2011年8月24日(水) 聖霊を受けるには? 大阪府 K・Nさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのK・Nさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「今、わたしがほしいのは、自由にできる健康と、それから聖霊です。『あっちに行け』とか『これをせよ』という指令や命令みたいなものがほしいのです。どうしたら聖霊が与えられるのか、教えてくださいますよう、お願いいたします。
何をどのようにしたらいいですか。他のものは目に入らないくらい、夢中になるためにはどうしたらいいのか教えてください。どこを何回読めばいいのですか。」
K・Nさん、お便りありがとうございました。いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。
今まで何度もいただいたご相談のお便りとも併せて、今回のお便りの意味を考えさせていただきました。そうでなければK・Nさんが心の中で望んでいらっしゃる答えにはならないように思ったからです。
というのは、聖霊を与えられるということと、神さまから直接命令を与えられるということとは必ずしも同じことではないからです。また、聖霊が与えられるということと、他のものが目に入らないくらい夢中になることともまた違うことだからです。
もちろん、K・Nさんが、そう思われた理由が分からないでもありません。確かに、使徒言行録には聖霊が命じたので、使徒たちが宣教の旅に出たり、その宣教の旅のルートを変更したりした、という話が出てきます。
たとえば、使徒言行録13章2節にはこう記されています。
彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
こうしてアンティオキアの教会はパウロとバルナバを小アジアの伝道へと遣わしました。いわゆるパウロの一回目の宣教旅行はこうして始まったのでした。
また二回目の宣教旅行の時には、アジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられるという事態が起こりました(使徒言行録16:6)。ですから、やむをえず予定を変更せざるを得ませんでした。そして、その結果、海を渡ってマケドニア州への宣教の道が開かれるという機会が与えられました。
こう言う記事を読んでいると、聖霊が与えられると、何でもかんでも決めてくださるので、自分では何も迷わなくても済むような気になってしまいます。ただ、聖霊の導きのままに動いていさえいれば、すべてがうまくいくような気がしてしまいます。そして、聖霊が導いてくださるのであれば、もはや他の何ものにも目を奪われたり、心を惑わされたりする必要もなくなってしまうような気がします。
確かに、聖霊が導いてくださるままに生きる人生が、どれほど素晴らしいものであるか、ということについては、少しも異論はありません。しかし、あのことやこのことが、ほんとうに聖霊の導きであるのかどうかは、そう簡単に分かるものではないということです。
たとえば、二回目の宣教旅行のとき、パウロとバルナバの間で意見の対立がありました。結果としてこの二人はバラバラに行動をします。一回目の旅行の時には聖霊に送り出されて、この二人が仲良く宣教活動をしたことと比べると、随分と違った出だしです。
では、この時この二人には聖霊は働いていなかったのでしょうか。確かに一回目の宣教旅行がスタートしたときのような聖霊の働きかけについては何も記されていません。しかし、二回目の宣教旅行の成果を考えてみると、そこには聖霊の働きがあったことは疑いようもありません。先ほどもいいましたが、聖霊があちこちで行く道をふさいだために、マケドニアまで足をのばす道が開かれたわけです。
確かに使徒言行録の書き方からすると、第二回の宣教旅行は人間的な思いから始まって、聖霊がそれを完成させてくださったようにも受け取れます。
しかし、そのことは、この二回目の宣教旅行には、聖霊が関与しなかった空白の時間があったということでもなければ、聖霊が関与しようとしたのに、パウロとバルナバが人間的な意見の対立を起こしたために、聖霊の思いとは違った方向に計画が走り出してしまったということでもないのです。すべてのことに人間の思いを超えた神の御手の導きがあり、聖霊の働きがあったということです。
ただ、人間の目にはそのことが明らかではない時があるということなのです。
つまり、何が言いたいかというと、聖霊がわたしたちに働きかけてくださっていても、わたしたちにはそのことがいつもはっきりと分かるわけではないということなのです。ですから、聖霊が与えられたからと言って、K・Nさんが期待しているとおりのことが起こるというわけではないのです。ちょっと期待はずれでがっかりさせてしまうような答えで申し訳ありません。
パウロにもバルナバにもいつも聖霊が注がれていましたが、それでもこの二人には何が神の御心であるのかは、その時には十分わかっていたとは言えないのです。それぞれに確信したところに従って行動をとったというのが正直なところでしょう。使徒たちでさえそうなのですから、わたしたちにとってはなおさらかもしれません。
ところで、神さまはわたしたちに何を望んでいらっしゃるのだろう、とときどき思います。K・Nさんが期待していらっしゃる通り、聖霊が与えられて、何もかもなすべきことをはっきりと命じてくださったなら、信仰の道を踏み外さなくてすむような気がします。余計なものにに心を惑わされずにも済みます。
しかし、神さまがわたしたち人間に望んでいらっしゃることは、人間がコンピュータで制御されたロボットのように動くことではありません。コンピュータで制御されたロボットはプログラミングされたとおりに動きます。自分で考えたり判断したりしません。いえ、判断はしますが、それも予め決められた条件にしたがって次の行動を振り分けているだけです。
神が望んでいらっしゃることは、聖霊を与えられたクリスチャンたちが、聖書をよく読んでよく考えたり、判断を求めて真剣に祈ったり、出した答えが本当に正しいかどうか、目を凝らし、耳を澄ませていつも見守ることです。決して、何も考えずにロボットのように動くことではないのです。そのことは使徒たちの生き方が証ししています。使徒たちはよく祈り、何が神の御心であって神に喜ばれることであるのか、いつも真剣に考えていました。
そうであるからこそ、信仰生活にはいろいろな発見があって、自分が成長していく喜びがあるのではないでしょうか。