2011年8月17日(水) 油を塗るとは?他 長野県 I・Sさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのI・Sさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「マルコによる福音書6章を読んでいて、分からないところがあります。
十二人を派遣するところで、最後に『病人に油を塗る』とありますが、油を塗るとはどういう意味があるのですか? 『二百デナリオンものパン』(6:37)とありますが、デナリオンとはお金の単位ですか、それとも量の単位ですか? また『心が鈍くなっていた』(6:52)の意味もよくわかりません。パンの出来事を理解していないし、夜明けまで舟に乗っていて疲れていたのでしょうか。…といろいろ考えるのですが、分かりません。よろしくお願いします。」
I・Sさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また、聖書通信講座も続けてくださって感謝です。
さて、きょうのご質問は、マルコによる福音書6章を読んでの疑問点ということですが、三つのご質問について、それぞれ順番に取り上げていきたいと思います。
まず、「病人に油を塗る」ということですが、油を塗ると書いて「塗油」と言いますが、この「塗油」については、聖書の中に様々な記述があります。油を塗る機会も、病気の人に対してばかりではなく、普段の身だしなみとしても油を塗る習慣があり
ました。
例えば、ルツ記3章3節には、ナオミがルツに向かって、体を洗って香油を塗って出かけるようにと助言する場面が出てきます。どんな香油が使われていたのかは具体的な記述はないのですが、今流にいえば、エッセンシャルオイルとかアロマオイルと呼ばれるものではないかと思います。
身だしなみというのとは違いますが、出エジプト記30章23節以下に「聖なる聖別の油」についての記述が出てきます。そこに挙げられている材料は「ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒン」とあります。ベースになるのはオリーブオイルのようですが、そこに様々な香料を加えて香油を調合するようです。
もちろん、これは宗教的な儀式に使う特別な油ですから、庶民が使う香油はきっと別の材料が使われたことでしょう。
さて、ご質問に出てくるのは身だしなみのための香油でもなければ、聖別のための聖なる油でもありません。病気の人に塗る油の話です。
もともと油を体に塗る習慣は、中近東のような日差しが強く乾燥した気候の世界では、皮膚を乾燥と日焼けから守るために行われていたようです。しかし、ただオリーブオイルなどの植物性の油を体に塗るだけではなく、やがて様々な香料が混ぜられていくようになったのだと思われます。
今でもアロマセラピーという言葉があるように、様々な香料が用いられるのは、ただ香りがよいからというばかりではなく、やがて香料になる植物が持っている民間療法的な効果も信じられるようになりました。
おそらくはそういう実際的な理由から、病人に油を塗る習慣が生まれてきたのではないかと思います。
新約聖書のヤコブの手紙5章14節には「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」と勧められています。この病者のへの塗油の習慣はカトリック教会では七つの秘蹟の一つとして、今でも行われています。もちろん、この場合の「塗油」は、医学的な治療のためというよりも宗教的な理由から行われるものです。
さて、次のご質問ですが、「二百デナリオンものパン」という表現についてです。
デナリオンというのはローマの銀貨のことで、デナリオン銀貨というのがありました。これはギリシアの銀貨、一ドラクメに相当します。といってもあまりピンとこないかもしれません。
具体的に一デナリオンがどれくらいの金額かというと、日雇い労働者の一日の賃金に相当する額であると言われています。イエス・キリストがお語りになった「ぶどう園の労働者のたとえ」に出てくる日雇い労働者の賃金も、一日一デナリオンという約束で雇われました(マタイ20:2)。
ということは、「二百デナリオンのパン」というのは、日雇い労働者が二百日稼いでやっと得る金額で買うことができるほどのパンということです。
その場にいた人たちの数は、男だけで五千人いたのですから、二百日分の賃金全部を使ってパンを買ったとしても、それでも十分ではないということは弟子たちの目にも明らかであったということです。
さて、最後のご質問は、この五千人以上もの人々に食べ物を分け与えた奇跡に続くエピソードにかかわるご質問です。
イエス・キリストは大勢の群衆にわずか五つのパンと二匹の魚から十分な食べ物を分け与えられました。そのあとすぐに弟子たちを一足先に湖の向こう側へ舟で渡らせます。逆風に行く手を阻まれる弟子たちのところへ、イエス・キリストは湖の上を歩いてやってきますが、その様子を見た弟子たちは、イエスを幽霊だと思い、怯えて大声をあげてしまいます。イエス・キリストが舟に乗り込まれると、風はぴたりとやみ、今までの逆風はうそのように静まってしまいます。その様子にますます驚く弟子たちでした。
このエピソードを締めくくるにあたって、マルコによる福音書は、弟子たちが「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と解説します。
イエス・キリストがパンの奇跡をおこなったのは、ただ単に食べ物を好きなだけ与えることができる、人間にとって都合の良い存在だということを知らせるためではありませんでした。そうではなく、ご自分こそがまことの命を与えることができるまことの救い主であることを示すためでした。いいかえれば、イエス・キリストがやって来られた本当の意味が、この出来事には隠されているのです。
しかし、この福音書を読むと、この時ばかりか、たびたび弟子たちはイエス・キリストの使命について十分な理解にいたっていません。理解の足りない弟子たちの姿は、どの福音書にも共通して何度も現れてきます。実は、弟子たちがイエス・キリストについてほんとうに理解を深めることができたのは、復活の主であるキリストとであってからのことと言ってもよいでしょう。
この時もそうでした。マルコによる福音書によれば、パンの奇跡の意味を十分に悟っていないために、湖の上に姿を現したイエスを幽霊と思いこみ、怯えてしまったのです。それほどに弟子たちの心は鈍くなっていたということです。
もちろん、他の人と比べて特別に弟子たちの心が鈍かったということをマルコによる福音書は言いたかったのではありません。そうではなく、イエスの近くにいた弟子たちでさえも十分な理解を得ることができないほど、罪ある人の目には、イエスがまことの救い主であることはすぐには理解できなかったということです。
では、イエス・キリストを目で見たことのないわたしたちには、なおさら理解することが難しいのでしょうか?そうではありません。聖霊によって心の目が開かれるときに、まことの救い主の姿を知ることができるのです。