2011年8月10日(水) キリストにつながっているとは? 埼玉県 ぶどうの実さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのぶどうの実さん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「『主はぶどうの木、わたしたちは枝』と、ヨハネ15章にありますが、人生で豊かに実を結ぶ秘訣を教えてください。キリストにつながるとは具体的にどういうことですか。」

 ぶどうの実さん、お便りありがとうございました。聖書の言葉には比喩的な表現がたくさんあって、なんとなく感じがつかめても、さて、具体的にはどういうことだろうと疑問に思う個所がたくさんあります。きっとぶどうの実さんがしてくださった質問を、そのまま教会の人たちにぶつけてみたら、それこそ、いろんな答えが返ってきそうです。
 もちろん、ぶどうの実さんが求めているのは、いろいろな人の意見ではなくて、これ、という一つの正しい答えであることは百も承知しています。確かに、この言葉をおっしゃったイエス・キリストご自身の頭の中には、具体的な答えがあったはずです。
 しかし、残念なことにこの言葉を聞くのは人間ですから、いつもキリストの言葉を正しく理解できるとは限りません。正しく理解しようとは努力していますが、聖書学者でさえ誤ることがあります。
 しかし、聖書は特別な訓練を受けた人だけが理解できる特別な書物ではなくて、普通の読解力と聖霊の導きがあれば、たいていのことは理解できる書物であるというのも事実です。そうでなければ、聖書を自分で読む意味がありません。ですから、いろいろな人の考え方や見方を通して、正しい捉え方を学んでいくことも無意味なことではないように思います。そう言う意味で、グループで学ぶ聖書研究会で、このような質問を取り上げることはとても有意義なことだとわたしは思います。

 さて、話をもとに戻しますが、ご質問に出てきたヨハネ福音書の15章の言葉を、まずそのまま読んでみたいと思います。まずは1節から6節までです。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」

 まず、この個所ではっきりとわかることは、この言葉をおっしゃってるイエス・キリストがまことのぶどうの木であること、そして、イエス・キリストの父、つまり父なる神が農夫であること。そして、ぶどうの枝はどうやらわたしたちクリスチャンであるということです。

 さらにこの枝には、この個所を文字通りに読めば、三種類あります。一つはキリストとつながっていながら実を結ばない枝、それから、二つ目はキリストとつながっていて実を結ぶ枝。三つ目の枝は、キリストにそもそもつながっていない枝です。ただし、三番目の枝については「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」とか「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」などのように、仮定形として「もし〜ならば」という形でしか出てきません。あくまでも「つながっていなければ」という仮定が真実である場合におこる結果を述べた個所です。「あなたがたのうちの誰かが、現実にはつながっていない」という現実の話をしているわけではありません。
 それに対して、イエス・キリストは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」という現実を語っています。あなたがたはぶどうの枝かもしれない、という仮定の話ではありません。あるいは、ぶどうの枝になりなさい、という命令でもありません。枝である、という現実を語っているのです。
 さらにそれに続く言葉は注意が必要です。新共同訳聖書では15章5節の後半はこう訳されています。

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」

 しかし、原文では仮定形ではなく、こう記されています。

 「わたしにつながっている人、その人にわたしもつながっている。その人は豊かに実を結ぶ」

 これは真理を語った言葉であって、仮定の話ではありません。

 そうすると、2節に出てくる「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」の話は、先ほどの5節の後半の言葉と矛盾してしまうことになります。というのは、キリストとつながっている人は、豊かに実を結ぶことになっているからです。つながっていながら、実を結ばないことはあり得ない話です。ですから、二節でいう「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」というのは、見かけはつながっていてもほんとうはつながっていない枝、ということでしょう。だからこそ、父なる神によって取り除かれてしまうのです。

 さて、話はここからですが、では、つながっているとはどういうことでしょうか。9節を読むと「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われています。

 実は枝が「つながっている」という言葉と愛に「とどまる」という言葉は同じ言葉が使われています。つまり、枝としてつながるということは、言い換えれば、キリストの愛のうちにとどまることです。
 では、「キリストの愛のうちにとどまる」とは、具体的にどういうことでしょうか。次の10節にはこう記されています。

 「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

 キリストの掟を守ること、それがキリストの愛にとどまることです。ちなみに、ここでは「守るなら」と仮定形で言われています。そして、「とどまっていることになる」と未来形で描かれます。この点が枝のたとえと若干違う点です。なぜそう描かれるのか詳しいことは今回は省略します。

 では、キリストの掟とは何でしょうか。12節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と言われています。

 つまり、キリストにつながっているとは、具体的には、キリストががわたしたちを愛したように、互いに愛しあうことなのです。そうすることが豊かに実を結ぶ秘訣なのです。