2011年8月3日(水) こんな考えは伝道の後退ですか? 東京都 Y・Tさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は東京都にお住まいのY・Tさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「いつも放送をありがとうございます。思うところがあって質問いたします。
伝道での態度ですが、聞く耳のある者には聞こえても、耳を持たない者にいくら勧めても仕方がない、かえって『押しつけだ、民主的でない』という批判をいただくだけだということに気がつきました。説明を要求する者に説明できるようにして、あとは言葉ではなく、行いによって証しするのがいいのではないかと思うようになりました。伝道の後退でしょうか。ご指導いただければ幸いです。」
Y・Tさん、お便りありがとうございました。自分が信じているキリスト教の福音を伝えるということは、そんなに簡単ではないということは、誰もが経験していることだと思います。簡単ではない理由はいろいろありますが、その一番の難しさは、「相手がいる」という難しさです。もちろん、相手がいなければ伝道にはなりませんし、一人で好きに話しているだけなら、独りごとにすぎません。
相手がいる難しさは、相手が聞きたいと思うこと、知りたいと思う関心と、こちらが伝えたいと思うことが、必ずしも一致しない難しさです。これはキリスト教の伝道に限らず、どんな話でも起こることです。聞かされる側の立場に立って考えれば、自分の関心のない話を聞かされることほどつらいものはありません。
それが他愛もない話なら少しぐらい付き合ってもらえるでしょう。しかし、自分の人生を大きく変えてしまうほどの話であるならば、いきなり話されても心の準備ができていないも当たり前です。それもまったく目新しい話ならば、それでも興味を持ってもらえるかもしれません。しかし、キリスト教の話となると、ある程度の知識と偏見が邪魔をして、中々心を開いて聴いてもらえるものではありません。一度でも誰かにキリスト教を伝えた経験のある人なら、そういう体験を味わったことがあるかと思います。
もちろん、まったく逆の経験もあるだろうと思います。今度はこちらの側が相手に対する偏見を持っているために、どうせ話しても聴いてもらえないと思っていたところが、話してみると驚くほど反応よく耳を傾けてもらえた、という経験です。
こう言うことが起こるので、伝道するのはとても難しいと感じられるのだと思います。話すのを諦めていたのでは、伝道にはならないし、かといって心を開いていない人に語ったとしてもうるさがられるだけだからです。しかも、心を開いているか、開いていないかは、その人に対する思い込みや偏見が判断を狂わせることがあるからです。
こう言う場合、この世の営業マンだったら様々なテクニックを駆使して、相手の関心を起こし、興味を持たせ何とか自分の目的が達成するように努力するのではないかと思います。そういうこの世の知恵や努力はキリスト教の伝道にもある程度は役に立つかも知れません。しかし、事柄が事柄だけに、あまり露骨な方法では、返って嫌がられてしまうのがオチです。
そのような伝道に対する経験が積み重なって、ご質問に出てきたような考えに至るのではないかと思います。そして、Y・Tさんはそのようなご自分の考えを「伝道の後退でしょうか」とおっしゃっています。
確かに、Y・Tさんのような考えに対して、テモテへの手紙一の4章2節を引用して、時が良くても悪くてももっと積極的にガンガン伝道すべきだという考えの人がいることも事実です。あるいは、だれでも一寸先のことは分からないのですから、今のこの時がその相手にとっての伝道の最後のチャンスかもしれないということもあるわけです。そう思えば悠長なことは言っておられない、と考える人もいます。
しかし、初代教会の使徒たちの実際の伝道の働きを見ていると、必ずしもそうした考えが伝道活動の基準にはなっていないように思います。
使徒たちは相手が信じるまで語り続けるのではなく、時にはその場を去り、伝道の対象を変えることもありました(使徒13:46)。あるいは、何かの事情が起こって伝道の場所を変更せざるを得ないこともありました(使徒16:6-7)。伝道にはそういう判断を下す知恵と勇気ある決断も必要です。
しかし、だからといって、使徒たちは、折が悪いからといって御言葉を語るのをやめてしまったわけではありません。誰に対してどう語るのか、その機会を巧みに捉えて主の業を推し進めていったのでした。そうした判断を支えていたのは、結局は自分たちをお遣わしになっている神への信頼でした。使徒たちは伝道を単なる人間的な説得とは考えていませんでした。聖霊なる神が人の心を開いてくださることを信じていたからこそ、大胆に語り続けることができたと同時に、自分たちの力が及ばないと感じるときには、そこから退く大胆さも持ち合わせていたのです。
もちろん、これら使徒言行録に記されていることは、初代教会の宣教の大きな働きでのことです。神の特別な導きのものとで、ユダヤ人伝道から異邦人伝道へとパウロは伝道の対象を変えたわけです。あるいは、聖霊の特別な導きがあったので、パウロは小アジアでは御言葉を語ることを禁じられ、結果としてヨーロッパ伝道に道が開かれたわけです。
しかし、現代ではそのように神はわたしたちを導いて下さらないかといえば、それを完全に否定することはできないでしょう。同じ神は今もなお生きて働いてくださっています。わたしたちの判断と思えることの中に、実は聖霊の導きがあって、語るべき時と黙する時とを教えてくださっているはずです。そのような聖霊の導きを信頼して、今がどういう時なのかを信仰の目をもって判断することが大切です。
聖霊の働きは、わたしたちが思うよりももっと自由で大胆であると思います。ですから、Y・Tさんがお考えになった伝道での態度ですが、原則として、そのような態度で伝道に臨むことは決して伝道の後退ではありませんが、しかし、そのルールに縛られていると、聖霊の自由な働きを見失ってしまうことも起こるかもしれません。
大切なことは、聖霊が今どのように働いているかを、いつも祈りつつ見守ることだと思います。では聖霊の働きをどのように知ることができるのかと言えば、結局、伝道の対象となるその人への祈りと関心を失わないことに尽きます。その人への関心を失ってしまえば、その人に働きかけている聖霊の働きにも目が向かわなくなってしまうことでしょう。