2011年7月27日(水) 悪霊について ハンドルネーム・ベスさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ベスさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも相談にのってくださってありがとうございます。
きょうは『悪霊』について質問させてください。『悪霊』ってほんとうにいるのでしょうか。言葉を聞いただけでも恐ろしいと感じます。
ある教会では、悪霊の話などは信者が怖がるので、あまり話さないようにとの取り決めがなされていると聞きました。そういうことを聞くと、返ってますます恐くなってしまいます。
悪霊について本当のことをおしえてください。よろしくお願いします。」
ベスさん、お便りありがとうございました。聖書のことをまったく知らない人でも、「悪霊」という言葉を聞いて、心地よい気持ちになる人は誰もいないだろうと思います。というのも、人間にとって害悪を及ぼす霊だからこそ、「悪霊」と呼ばれるからです。
聖書の中に出てくる悪霊も、何一つとして快いイメージのものはありません。
例えば、ルカによる福音書の8章に出てくる悪霊に取りつかれた男は、「鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」とあります。その姿を想像しただけでも背筋がぞっとします。
同じルカによる福音書の9章に登場する悪霊は、子供さえも餌食にして、突然叫びださせたり、けいれんを起こさせたりします。
こういう悪霊の仕業を描いた福音書の記事は、どれを読んでも気持ちの良いものではありません。そんな悪霊にうっかり取りつかれでもしたら大変だと思って、とても恐ろしくなってしまいます。
しかし、聖書が書かれた目的は、悪霊の仕業をこれでもかというくらい見せつけることではありません。むしろ、こうした悪霊に対して、イエス・キリストが勝利されていることを描くことが目的です。
あるときイエス・キリストはご自分を批判する人たちにこう言いました。
「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)
福音書が悪霊の働きについて描くのは、悪霊の支配の恐ろしさを描くためではありません。もちろん、悪霊の存在の現実と、それがもたらす悲惨さとは恐ろしいものです。しかし、その悪霊も神の国の支配の前では、力がないのです。イエス・キリストがこの世にやってきてくださることによって、悪霊の支配も力も骨抜きにされてしまっているのです。今なお、悪霊が最後の力を振り絞って神に抵抗したとしても、その力は神に対して遥かに及ばないのです。
まず、その点をしっかり押さえておかなければ、返って悪霊の思うつぼです。悪霊の願いは、人々が神から目をそらし、悪霊に注目することです。神を畏れず、悪霊を怖がることを何よりも望んでいます。その罠にまんまとひっかかってはいけません。
ところで、聖書の中に出てくる悪霊は、いつも背筋が寒くなるような、恐ろしい姿で登場するするとは限りません。パウロは悪霊の働きについて、こんなことを書いています。
「終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。」(1テモテ4:1)
さきほど福音書の中で見てきた悪霊の働きは、心を奪われるというよりは、むしろ、誰もがかかわりになりたくない悪霊の姿でした。しかし、パウロが描いている悪霊の働きはもっと巧妙です。
その教えは人の心を奪い、まことの信仰から人々を引き離しかねないものです。しかも、悪霊の教えだなどと気がつかないままに、悪霊の教えを信じ込んでしまうのです。
この場合パウロが具体的に記している悪霊の教えとは、「結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたり」する教えです。このような禁欲主義の教えは、しばしば真面目に信奉されてしまうものです。
同じようなことは、手を変え品を変え、今でもありうることです。禁欲主義が流行らなくなった現代では、逆に放縦な生き方こそ人間らしい生き方だ、と人間をその気にさせます。あるいは、宗教を信じることは時代遅れだ、ともっともらしい考えを吹き込みます。あるいは、「絶対的な」と言える教えも価値も権威もない、などという考えは絶対に正しいと思いこませてしまいます。
悪霊の働きというのは、決してわたしたちが想像しているような、おどろおどろしい、いかにも悪霊のような姿をとっているものとは限りません。むしろ、とても優しく、魅力的で、飛びつきたくなるような姿でやって来るものです。しかし、よくよく中身を見てみると、結局は人の心をまことの神から引き離そうとする点で、どれも共通しています。
もう一か所、パウロが悪霊について語っている興味深い言葉があります。その言葉は、偶像に供えられた肉をクリスチャンが食べてもよいかどうか、という議論の中に出てくる言葉です。もちろん、パウロは偶像の神などいないと、はっきりその存在を否定してこう記しています。
「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。」(1コリント8:4)
しかし、人々を偶像へと誘い、偶像を崇めさせようとする力が働いていることにも注目させて、同じ手紙の中でこう記しています。
「偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。」(1コリント10:19-20)
宗教から離れたところにも、また、宗教のただ中にも、悪霊の働きはもっともらしく入り込んでいるのです。このことこそ、わたしたちが警戒しなければならない一番大切な点です。