2011年7月20日(水) 聖書は神々の存在を前提としている? ハンドルネーム・たんぽぽさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・たんぽぽさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生こんにちは。いつも質問への丁寧な回答ありがとうございます。
前から少し気になっていた事なのですが、今日詩編95編を読んでいてまた気になったので質問させてください。
私は新共同訳を使っているので、もしかしたら訳の仕方の問題なのかなと思いながらスッキリしないのですが、聖書には神々とかその存在を感じるような表現の上に唯一の神がいらっしゃるというような意味に受け取れる箇所がいくつも出て来るように思うのです。他の神々を作る事を禁止しているのに、どうしてこの様な表現があるのでしょうか。
今日、詩編95編3節を読んだ時にあたかも他の神が沢山あるかのように感じてしまいました。どの様に考えたら良いのでしょうか。宜しくお願いします。」
たんぽぽさん、お便りありがとうございます。実はわたし自身も聖書を読み始めた時に、ご指摘のような個所を読んで、変だなぁと思ったことがありました。
確かに聖書には、「主は唯一である」とありますし(申命記6:5)、十戒には「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と教えられています。これは、色々な神々がいるけれども、ただ聖書の神だけを自分の神として信じなさい、という意味ではありません。そもそも、他の神々の存在そのものがないという前提です。ですから、パウロも、コリントの信徒たちが偶像への供え物の肉を食べてもよいかどうかで混乱しているときに、はっきりとこう述べました。
「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(1コリント8:4)
聖書はただお一人の神だけが存在し、人間が神々だと思っているものは、真の神ではないと教えています。けれども、ご指摘のあった詩編95編3節にはこう書かれています。
「主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王。」
新改訳聖書の翻訳ではもっと分かりやすく、こう訳されています。
「主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である」
たんぽぽさんがひょっとしたらと心配されていた、翻訳の問題では決してありません。原文で読んでも「神々の上にいる大いなる王」と記されています。
実は詩編の中にはこうした表現がここ以外にも数多く出てきます。たとえば、詩編82編はこんな言葉で始まっています。
「神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる。」
一見すると、たくさんの神々が集う会議で、聖書の神が裁きを実行するようすを描いたように受け取れなくもありません。しかし、続きを読んでいくと、ここで裁きを受けているのは、弱者や孤児を虐げるイスラエルの不正な支配者たちであることが分かります。そうした神の代理人として地上で統治と裁きを行うべき人々に対して、この詩編の作者は「あなたたちは神々なのか」(82:6)と言い、その人々を天の神はお裁きになるということです。
もっともこの詩編には別の解釈もあります。ここでいう「神々」というのは「天使たち」を指すという解釈です。確かにギリシア語訳の旧約聖書では「神々」を「天使たち」と訳している個所がないわけではありません。例えば詩編の8編6節では「神よりも僅かに劣るものとして」とあるとことろを「天使たちにわずかに劣るものとして」とギリシア語訳の聖書では翻訳されています。
ちなみにこの個所はヘブライ人への手紙2章7節に引用されていますが、ギリシア語訳から引用されていますので、「神」ではなく「天使たち」と訳しています。
ところで、少し話が横道にそれてややこしくなりますが、ヘブライ語で「神」のことを「エル」と言いますが、それはアラビア語の「アラー」という単語に当たります。もちろん、神はお一人しかいらっしゃらないので「エル」は単数形です。
しかし、「エル」という単語に複数形がないわけではありません。異教の神々について複数形で表現しなければならない時には「エローヒーム」という複数形が用いられます。
ところが、複雑なのは、聖書の中に出てくる「エローヒーム」という言葉は、形としては複数形なのですが、実際には唯一まことの神お一人を指す時にも「エローヒーム」という複数形が用いられるのです。この場合にはたくさんの神々という意味ではなく、実際には単数でありながら、単語の意味を強める目的で複数形で表現されていると言われています。こういうのを文法の用語では「強意の複数形」と呼んでいます。
さきほど引用した詩編8編6節の中で用いられている「エローヒーム」は単数形の「神」という意味なのか、複数形の「天使たち」の意味なのか、文法的にはどちらにも翻訳が可能だということです。
もう一か所、別の例をあげると、詩編50編はこういう言葉で始まります。
「神々の神、主は、御言葉を発し 日の出るところから日の入るところまで 地を呼び集められる」
「神々の神」という表現は、一見したところ、明らかに他の神々の存在を前提としているように感じられます。確かに「男の中の男」と言えば、他にもたくさんの男がいることが前提です。「王の中の王」といえば、他の王が大勢いることが前提です。しかし、この表現が言いたいことは、「最高の男」「最高の王」というぐらいの意味です。他に男が何人いるか、他に王が何人いるか、という問題ではありません。
では、「最高の」という表現自体は、他の存在を前提としている表現でしょうか。厳密にいえば「最高」というのは「最も高い」ということですから、「最も低い」「最低」のランクから「最高」のランクまでいろいろあることが前提です。しかし、「最高の神」という表現が唯一まことの神に対して用いられたからと言って、それは「最低の神」の存在を必ずしも前提としていることにはならないはずです。この場合の「最高」という言葉は、あくまでも神を賛美する言葉ですから、「神々の神」という表現が、必ずしも他の神々の存在を前提としているとは限らないでしょう。
では、ご指摘のあった詩編の95編3節はどう理解すべきでしょうか。今まで述べてきたのと同じように理解することももちろん可能です。しかし、偽りの神々と比較して、主である神があらゆる偽りの神々を超えて大いなる王だ、と言ったとしても、それは単に表現上の問題であって、実際に神々の存在を前提としているということにはなりません。
イスラエルはバビロンによって異国の地に連れて行かれましたが、その地で異教の神々とそれに頼る人々をつぶさに目にしました。そればかりか、その地の人々からは「お前の神はどこにいる」(詩編42:4)とあざけられさえしました。しかし、この捕囚から解放され、主の神殿で再びまことの神を礼拝した時に、歴史を導く聖書の神こそ、そうした神々を超えたまことの王であるという確信を強められたのではないでしょうか。