2011年7月6日(水) 何からの救いですか? 山形県 Y・Wさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いつも放送ありがとうございます。イエス・キリストを信じると救われると言われますが、何から救われるのでしょうか。一般的には罪と死と裁きと永遠の滅びからの救いであると語られます。救いについてお教えいただければと思います。よろしくお願いします。」

 Y・Wさん、いつも番組を聴いてくださり、ありがとうございます。今回は「救い」についてのご質問です。

 「救い」という言葉ですが、これは必ずしもキリスト教の専門用語ではありません。では、宗教に固有の言葉かということ、それもそうではありません。例えば、「医者が患者の命を救う」という場合には、まったく宗教的な意味はそこに含まれていません。生命の維持が困難であった者を、医療技術を使って生命の維持ができるようにした、というぐらいの意味です。
 あるいは「テストで合格点を取れなかった者たちを、出席点を評価して救ってやる」などの場合にも、それは単に及第点に達していない者たちを特別な措置で合格させてやる、というぐらいの意味です。そういう甘い点をくれる学校の先生に対して、生徒や学生たちは「仏」などというあだ名をつけるかもしれませんが、それで新しい宗教が生まれるわけではありません。その場合の「救い」という言葉もまったく宗教とは関係のない言葉です。

 しかし、この言葉は宗教的な意味を持つことももちろんあります。たとえば、「悲しみのうちにあるときに、祈ってもらうことで悲しみから救われた」と言うような時には、その場合の「救い」は、本人にとっては宗教的な意味をもった救いです。そして、そういう救いは、どの宗教でもありうることです。
 あるいは、借金に困っていた社長が、商売繁盛の御利益をうたう神社にお参りに行ったら、たちどころに資金繰りもよくなって、借金苦から救われた、というような使われ方もします。その場合の「救い」は現世的な救いではありますが、本人にとってはやはり宗教的に意味のある救いです。
 キリスト教会がそういう現世での繁栄や祝福をまったく説かないのかというと、必ずしもそういうわけではありません。あらゆる善きもの、恵みと祝福、繁栄の源として、聖書の神に対して現世的な救いを求めることは、キリスト教的にまちがったことであるとはいえません。

 しかし、聖書はもっとキリスト教に固有の「救い」について語っています。きょうのご質問も、そうした数ある救いの中で、キリスト教に固有の「救い」についてのご質問と受け取らせていただきました。特に「何からの」救いであるのか、その点についてご一緒に聖書から考えていきたいと思います。

 そもそも、聖書が救いについて述べるのには、大きな前提があります。それは、主である聖書の神が天地万物をお造りになったという大前提と、その神によって造られた人間が、神の意志に逆らって堕落してしまったということです。聖書の箇所で言うと、創世記の最初の三つの章に記されている事柄です。

 さて、この堕落の影響が、ただアダムとエバだけのことであれば、救いはこの二人の救いについてだけの問題です。しかし、聖書を読むと、アダムとエバが神の言いつけに背いて、善悪を知る木の実からとって食べ、本来あるべきところから堕落してしまった結果は、アダムとエバから生まれる子孫にも影響を及ぼしました。

 例えば聖書の言葉でそのことを言い表すと、パウロはローマの信徒への手紙3章23節でこう書いています。

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」

 同じローマの信徒への手紙5章12節ではこう記されています。

 「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」

 アダムとエバの堕落の結果、罪が入り込み、その報酬である死が全人類に及ぶようになったのです。そうして、すべての人は神の栄光にあずかることのできない、神の栄光からは程遠い存在となってしまいました。そうした人間の罪の現実と悲惨さについて、パウロは同じローマの信徒への手紙の1章後半から3章の前半にかけて書き綴っています。

 ですから、聖書が説く救いは、第一に、この罪の現実とそれがもたらす悲惨からの解放として描かれます。罪に関して言えば、罪の結果が死なのですから、罪からの解放は同時に死からの解放を含んでいます。
 また、罪とは神の義に対立するものですから、救いは神の御前に義とされることと切り離して考えることができません。もちろん、キリスト教では、人間が勝ち取る義ではなく、キリストを信じる信仰によって、キリストが勝ち取った義を、神が信じる者に転嫁するという、「信仰による義」です。
 また、義とされることによって、最後の審判での裁きから解放されるのですから、当然、裁きからの救いもそこに含まれています。

 さらに、罪がもたらす悲惨さは、罪を犯した人間にだけ留まるものではありません。創世記3章17節で、神はアダムに対して「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とおっしゃっています。パウロもローマの信徒への手紙の8章20節以下で、被造物が虚無に服しており、滅びに隷属していることを述べています。つまり、罪がもたらす悲惨さは、人間だけに留まるのではなく、全宇宙にも及んでいるというのが聖書の教えです。
 従って聖書が説く救いは、造られたものすべてが虚無と滅びから救われることを含んでいます。救いの完成が、新しい天と新しい地の出現として描かれるのは、まさに救いが被造物全体に及び、新しい創造、あるいは再創造として理解されているからです。

 聖書が教える救いについて、正しい理解を得るためには、「何からの救い」ということも大切ですが、同時にどこへ向かっての救いなのか、ということも大切です。

 聖書はキリストの十字架の血による罪からの救いや罪の赦しについて多くの場所で述べています。しかし、それだけでは、聖書が教える救いの半分の面だけしか捉えていることにはなりません。もちろん、その半分がなければ、あとの半分が続かないわけですが、聖書が教える救いは、罪や死や裁きや滅びからの解放だけがすべてではありません。

 そうした縄目から解放された人間が、どういう世界で、どのように新しい命に生きるのか、そこまでを含めた救いなのです。そして、そうした救いの完成は、終末のときまで待つとしても、しかし、そうした神の国の完成を今ここで味わう恵みを与えられているということもキリスト教が説く救いなのです。