2011年6月8日(水) なぜ祈る必要が? 愛知県 M・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのM・Hさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「祈る前から、祈る内容を神が知っているのならば、祈る意味が分かりません。」

 M・Hさん、お久しぶりにお便りありがとうございました。続けて番組を聴いていてくださってありがとうございます。

 さて、今回はお祈りについてのご質問です。お祈りについては、この番組の中でも何度か取りあげたことがあると思いますが、今回、改めてご一緒に考えてみたいと思います。

 まずは、M・Hさんが疑問に思わることをおっしゃったイエス・キリストの言葉から見てみたいと思います。
 イエス・キリストはマタイによる福音書の6章で、弟子たちに「主の祈り」と呼ばれる祈りの言葉を教える前に、祈りについての短い教えを話されました。

 まずは解説抜きで、その個所をお読みしたいと思います。マタイによる福音書の6章5節から8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 このイエス・キリストの祈りについての教えは、二つの部分から成り立っています。一つは偽善者のような祈りについての批判です。具体的に当時のファリサイ派や律法学者の祈りに対する批判ということができると思います。
 もう一つは、異邦人の祈りに対する批判です。異邦人の祈りの特徴は、くどくどと祈りの言葉を述べることだと、キリストは指摘します。それは、ただ単に長い時間祈ることを批判しているのではありません。そうではなく、言葉数を多くしなければ神は願いを聴いて下さらない、という神に対する信頼の薄さと、祈りに対する思い違いを問題としているのです。

 この異邦人の祈りに対する批判の中で、イエス・キリストはまさにM・Hさんが疑問に感じられたことをおっしゃっています。つまり、イエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 もし、イエス・キリストがおっしゃる通りであるとするならば、M・Hさんが疑問を持たれたように、祈ることにどんな意味があるのか分からないというのももっともな話です。

 このイエス・キリストのおっしゃったこと、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という発言が、いったい祈りに関してどういう意味をもつのか、ご一緒に考えてみたいと思います。

 先ほども言いましたが、このイエス・キリストの言葉の背景には、異邦人の祈りに対する批判が含まれています。それは言葉数が多ければ祈りが聞かれると考えることに対する批判です。

 そもそも人が祈る時、どうして言葉数が多くなってしまうのでしょうか。そこにはいくつかの原因が考えられます。
 その一番の大きな原因は神に対する信頼の薄さです。言葉を換えれば、神は人間によってリクエストされるまでは決して動かないお方だ、という考えが意識的にか、無意識のうちにか、人間の心にはあるということです。

 では、神は人間によってリクエストされるまでは決して動かないお方だと、どうして人間は考えるのでしょうか。そこにもいろいろなケースが考えられます。

 一つには、神はすべてを御存じではないので、人間がいちいち教えなければ動きようがないと考える、神の能力に対する信頼の低さがあります。

 もう一つ考えられるのは、神はほんとうの必要性によって動くお方ではなく、むしろ熱心さによって動くお方だと考える、神の判断力に対する信頼の低さがあります。

 そして、どちらの場合にも、自分の必要は自分が一番よく知っているという人間の思い上りがその背景にあります。

 本当の必要と単なる欲望とを区別することができないというのは論外ですが、しかし、実際にはこの二つを見分けることは、当の本人にはけっして簡単ではありません。祈ることの本質が、自分の欲望を実現するために神を説得することにあるのだとすれば、自分の思いのたけを神に長々と語り、自分の思いを神に押し付け、その欲望を神の力によって実現できれば、本当に祈ったということになるでしょう。

 しかし、イエス・キリストが望んでいらっしゃる祈りはそうではありません。わたしたちのほんとうの必要を御存じであるお方の前に、自分の願いを語る祈りです。しかし、それは自分の欲望や願いを押し通すための祈りではなく、逆に祈ることを通して自分の思いが正され、自分のほんとうの必要がどこにあるのかに気がつかされる祈りです。

 言い換えるなら、自分の願いと神の御心とを一つにするための祈りです。

 それは、神は何でもご存じだから、神の御心以外は何も祈る必要もない、というのとは違います。神は神ご自身の御心を御存じですが、わたしたちは自分に対する神の御心がどこにあるのかを知らないことが多いのです。

 たとえば、パウロはどうだったでしょうか。コリントの信徒への手紙二の12章7節以下によれば、パウロには一つのとげが与えられていました。パウロはこのとげについて、取り去ってほしいと何度も願いました。パウロにとっては、そうすることが主により良く仕えるために必要なことだと思えたからです。
 しかし、主の答えは違いました。

 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

 パウロは自分の祈りが祈った通りには叶えられませんでしたが、主の大きな御計画を知ることができたのです。そして、心から、「わたしは弱いときにこそ強い」と確信することができたのです。
 もし、パウロが、どうせ神はすべてを御存じなのだから、祈っても無駄だと思って、何も祈らなかったとしたらどうでしょう。パウロは自分の弱さを嘆くだけの人生で終わったことでしょう。