2011年5月18日(水) 天使と聖霊の違いは? 岡山県 N・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は岡山県にお住まいのN・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「聖霊と天使の違いについて、わたしにとっては、とても似ている感じがするのですが、山下正雄先生のお話をお伺いしたく思っています。よろしくお願い申し上げます。」

 N・Yさん、お便りありがとうございました。お便りをいただいてまず思ったのは、「聖霊と天使の似ているところは、はて何だろう。どういうところが似ていると感じられるのだろう」ということでした。ラジオを聴いてくださっている方の中にも、同じように思われた方がいらっしゃるのではないかと思います。
 聖霊と天使は、そもそも単語が違うのだから、違うに決まっているという頭でものを考えている人にとっては、「似ている」という発想そのものがないのかもしれません。N・Yさんのご質問にお答えするためには、まずはどこが似ているのか、そのことから出発して、では、違いがどこにあるのか、考えてみたいと思います。

 聖霊も天使もそして人間も、「存在」であるという点ではどれも共通しています。しかし、同じ「存在」であっても、聖霊と人間が似ていると思う人は、まずいないだろうと思います。それに対して、聖霊と天使が似ていると思われるとすれば、一体どの点なのでしょうか。

 「存在」について、様々な区別を考えるときに、「霊的」なものと、そうでないものとに分けて考えることができるように思います。この場合の「霊的な」という意味は、通常、肉の目に見えるか見えないか、という区別と、それにに加えて、それ自体が道徳的な意志を持つかどうかという区別が加味されます。

 肉の目に見えるものとそうでないものという区別だけであるとすれば、空気や電波は目には見えないので霊的な存在ということになってしまいます。しかし、それ自体が道徳的な意志を持つかもたないか、という区別を加えることで、空気や電波は霊的な存在ではなくなります。

 逆に人間には道徳的な意志がありますが、目に見える体を持っているという点では「霊的な存在」には含まれません。

 実はこの存在についての分類は、今、わたしが思いつきで作った分類ですが、そういうくくり方で考えるとすれば、聖霊も天使も霊的な存在という点で似ていると言えるかもしれません。

 聖霊と天使の似ている点は、そればかりではありません。天使のことをヘブライ語では「マラーク」と呼びますが、その意味は「遣わされた者」という意味です。この言葉は、必ずしも霊的な存在である「天使」だけに用いられるわけではありません。人間の使いにも「マラーク」という言葉が使われています。
 たとえば、イザヤ書42章19節に出てくる「わたしの遣わす者」というのがマラークという言葉ですが、ここでは霊的な存在である天使のことではなく、人間を指しています。ちなみにマラキ書の「マラキ」という単語も「わたしが遣わす者」という意味です。

 ちょっと話が脱線してしまいましたが、天使を表すヘブライ語の「マラーク」の本来の意味は「遣わされた者」という意味ですが、新約聖書に出てくる聖霊は父と御子とから派遣されてくる者として描かれています。
 たとえば、ヨハネによる福音書14章26節には「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と記され、同じ15章26節には「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊」と表現されています。どちらの場合も聖霊は遣わされてくるお方です。そう言う意味では、遣わされた者である天使と聖霊は似ているように感じられるかもしれません。

 さらに、新約聖書で用いられる「天使」に当たる単語は、ギリシア語で「アンゲロス」と言います。もともとは「告げ知らせる」という動詞から派生した単語で、「告げ知らせる者」というのが元来の意味です。
 新約聖書の登場する天使の役割を思いだしてみると分かる通り、天使が遣わされてくるのは、神の意志を人間に告げ知らせるためです。たとえば、ルカ福音書の2章に登場する天使は羊飼いたちにメシアの誕生を告げました。
 では、聖霊はというと、確かにヨハネによる福音書16章13節にはこう記されています。

 「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」

 神の意志を伝えて明らかにするという点では、天使の役割と似たところがあるかもしれません。

 このほかにも似ているところを探してみれば、あるのかもしれません。とりあえず、わたしの思いつく限りでは、両者とも霊的な存在であり、両者とも遣わされてやってくるという点です。そして、神の心の内にあることを明らかに告げる役割が与えられているという点でも似ているかもしれません。N・Yさんが思う「似ている感じ」というのも、おそらくこの三つの点ではないかと思います。

 しかし、こうした共通点にもかかわらず、決定的な違いが一つだけあります。それは、天使は神によって造られた被造物の一つであるにすぎませんが、聖霊は神によって造られたものではなく、三位一体の神そのもののお方だからです。

 もっとも、ここでいきなり三位一体の神という言葉を使うのはあまりにも唐突に聞こえるかもしれません。キリスト教教理の言葉ではなくて、聖書の言葉を使って違いを述べるとすれば、天使と聖霊の違いをこう説明することができると思います。

 まず、聖書には「父と子と聖霊」という三者がセットになって出てくる個所があります。有名なところでは洗礼についてイエスキリストがおっしゃった言葉、マタイによる福音書の28章19節には「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」るようにと命じられています。天使が聖霊と同じ役割を担うことができるのであれば、天使の名による洗礼も出てきてもよさそうです。しかし、天使の名による洗礼という言葉は聖書のどこにも出てきません。

 同じように祝祷の言葉として知られているコリントの信徒への手紙2の13章13節には「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」とあります。しかし、祝祷の言葉として「天使の交わりがあなたがた一同と共にありますように」という言葉は出てきません。

 つまり、「父、子、聖霊」という組み合わせの中に、「聖霊」に替えて「天使」が入り込む余地は全くないのです。その点を考えてみても、「聖霊」と「天使」がまったく異なる存在であることがお分かりいただけるのではないでしょうか。もちろん、こと細かく説明し始めれば、もっと違いはたくさんあります。しかし、それらは結局一番大きな違いから出てくる必然的な違いなのです。