2011年5月4日(水) 神の忍耐と怒りについて T・Hさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、お元気ですか。
 3月16日の放送にあった隣人愛の実行、大変難しいなと思いました。その時思ったのですが、では何故神様は例え極めて忍耐強いお方だとしても最後にはお怒りになり最後の審判で不信仰な者を裁かれるのでしょうか? 不信仰な者が神様の敵だとしたら最後まで愛し抜こうとされないのでしょうか? まるで自分の出来の悪さを言い訳するような質問ですが、是非ご教授いただければ幸いです。」

 T・Hさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。3月に放送した内容は、「敵を愛せよ」ということに関するご質問でした。その日の番組を、わたしはこう結びました。

 「わたしたちが行う隣人愛は、ややもすると自分の好まない人を排除した隣人愛にすぎません。イエス・キリストはそのことを問題としているのです。憎しみや敵対心を乗り越えた隣人愛、それが『敵を愛せよ』とおっしゃるイエス・キリストのおっしゃりたいことではないでしょうか。」

 では、神ご自身はご自分に敵対する者たちへの愛を最後の最後まで貫かれるのでしょうか。確かに最後の審判の時に、神に敵対する者たちは永遠の刑罰を受けると聖書には書かれているように思えます。そうすると、神はご自分に敵対する者たちへの愛を最後までは貫かれないということでしょうか。また、そうであるとしたら、それはなぜでしょうか…というのが今回のご質問です。

 さて、こうしたご質問に対して、二通りの答えが予想されます。一つは、神は慈愛に富んだ神ですから、決して、その愛を裏切るようなことはなさらない、というものです。では、なぜ、最後の審判のときに悔い改めない者に対して、裁きを行うことを予告されるのか、という問いに対しては、それは、あくまでも最後の審判の時までに罪人を悔い改めさせるための方便であって、ほんとうは、敵を滅ぼすようなことはなさらないのだ、という答えです。

 こういう答えについて、少なくとも二つのことを述べなければならないと思います。

 その一つは、この答えは「神は愛である」という前提から導き出された答えであって、「神は正しいお方である」という、もう一つの前提をまったく考えにいれない結論である、ということです。聖書に記されたすべての事柄のうち、一つだけを取り上げて、そこから重大な結論を引き出すのは、結論が偏りすぎていて、とても危険な解釈と言わざるを得ません。

 もう一つの点は、もし、ほんとうは裁くつもりがないのに、悔い改めさせるための方便でそう言っているすぎないと言いきってしまうとすれば、そのこと自体、神が審判について語る神の意図をないがしろにすることになってしまいます。

 もちろん、真面目に悔い改めて、それでもなお神のみ前に悔い改め足りないのではないかと心配する方たちの気持ちに対して、これ以上の恐怖心を与えることはよくないことはわかります。神はほんとうに最後の審判の時に、悔い改めない者に対して、永遠の裁きを用意しておられるのだろうか、と心配に思う人は、たいていは、真面目で信仰心の篤い人たちだからです。

 ただ、そういう方たちの心配を取り除くために、聖書が語ることの一部分だけを引っ張り出してくるのは、やはり神の言葉の濫用と言えるかもしれません。ただ、その気持ちはよくわかります。

 もう一つの予想される答えは、自分は神ではないので、ほんとうのことは分からないとするものです。

 これは確かにその通りだと思いますし、誰しもそうだと思います。しかし、神が聖書を通して教えていらっしゃる限りのことを、出来る限り正確に理解しようとすることそれ自体を、最初から放棄してしまったのでは、神が聖書をわたしたちに与えてくださった恵みを放棄しててしまうのも同然です。

 わたしたちが分かることは、聖書が語る範囲内でのことですし、それを超えて理解することは求められていません。また、聖書が語る範囲内で、都合のいいことだけを適当に知ればよいというものでもありません。そのどちらにも偏らないで、いただいたご質問を考えるとすれば、どんなことになるのでしょうか。

 まず、神が慈愛に満ちたお方であることは、堕落して神に敵対する人間を救おうと、その愛する御子イエス・キリストをお遣わしになった事実から、疑いようもありません。
 それはヨハネによる福音書3章16節と17節がもっともよくそのことを語っています。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

 しかし、また同時に聖書が最後の審判を前に、永遠の滅びについて警告していることも事実です。そして、その場合、この警告を真摯に受け止めて罪を悔い改めることを神が望んでいらっしゃることは、聖書の言葉から明らかです。
 たとえば預言者エゼキエルはこう記しています。

 「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」(エゼキエル18:30)

 さらに、エゼキエルは言葉をついで、こう述べます。

 「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」

 最後の審判についての言葉から逆算して神の愛を疑うのではなく、神の愛に信頼し、神の御心はわたしたちが神の御前に生きることであると確信して悔い改めることが大切なのです。

 では、神は人間には敵を愛することを命じておきながら、結局ご自分は悔い改めない敵をお赦しにならないのでしょうか。

 この質問にこれ以上答えることはわたしにはできませんが、ただ、この質問は、神と人間とを同列に置いた質問だということだけを指摘しておきたいと思います。わたしたち人間は、神から罪を赦していただく立場です。そういう恵みをいただいたのですから、自分に悪を働く者に対して寛容であるべきだというのは当然のことです。

 しかし、神は誰かから赦してもらう立場ではありません。その裁きは絶対なのですから、神の愛と正義とは矛盾することなく両立することができるのではないでしょうか。