2011年4月20日(水) イエスは神ですか? 千葉県 M・Sさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのM・Sさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組をありがとうございます。
 さっそくですが、二月二日の放送について、疑問に思ったことがありますので、質問させてください。
 今、ホームページで原稿を確認しながらこのメールを書いていますが、先生は『主』という呼び名がキリストに対して用いられていることについて、その場合の『主』(キューリオス)とはどういう意味なのか、という問題を提起されています。そして、この場合の『主』という言葉は、ギリシア語訳の旧約聖書においてヤーウェの訳語に用いられている言葉であることから、イエスをヤーウェと同じ意味で『主』と呼んでいた可能性がある、ということをおっしゃっています。そして、その根拠として、新約聖書では、イエスを神であるとしているのですから、イエスを主と呼ぶ時にも、ヤーウェである神に対するのと同じ意味で『主』と呼んだとしても不思議ではない、と結論しています。
 そこで、わたしの疑問ですが、まず一つは、その推論は順序が逆ではないかと思うのです。つまり、イエスが神であるという認識から、人々はイエスを『主』と呼ぶようになったのではなく、その逆で、イエスを『主』と呼ぶようになったことによって、そこに様々な信仰的な思いが込められるようになって、やがてイエスは神である、という認識が生じるようになったのではないでしょうか。
 もう一つの疑問は、その際に証拠聖句として挙げているロマ書9章5節の問題です。新約聖書全体を見渡すと、確かにイエスが神であるという信仰があるということは否定できません。同じ証拠聖句として挙げているヨハネ福音書はまさにその通りです。
 しかし、ローマ9章5節が果たして新共同訳聖書の翻訳の通りで正しいのでしょうか。そのことは先生自身がよくご存じのはずだと思いますが、口語訳聖書では、違う訳になっていて、イエス・キリストは神だとは書かれていません。新約聖書の中でもヨハネ福音書のように遅い時代に書かれたものならば、そうかもしれませんが、パウロの書簡でイエスが神であることを鮮明に語っている個所はほかにあるのでしょうか。パウロの時代にはまだイエスは神であるという信仰はそれほど明確ではなかったのではないでしょうか。ですから、ロマ書9章5節をあのように訳している新共同訳聖書の翻訳は証拠聖句として無理があるように思いますが、いかがでしょうか。
 もちろん、わたしはイエス・キリストは神ではない、と言っているのではありません。わたしが言いたいことは、イエスがまことの神であるという事実が、信仰として人々の間に浸透していくのには、当然時間的な経緯があったはずであり、パウロがロマ書を書いた時代には、まだそのような明確な信仰はなかったのではないか、ということです。
 以上、二つの疑問について、よろしくお願いします。」

 M・Sさん、番組を丁寧に聴いてくださってありがとうございます。M・Sさんがどんな方かは存じ上げませんが、お便りを読ませていただいた限りでは、相当聖書に詳しい方だとお見受けいたしました。正直のところ、かなり色々な本を読んで勉強をされていらっしゃるのではないでしょうか。特に最初の質問に関しては、そのことを強く思いました。

 さて、まずは一番目のご質問から考えてみたいと思います。

 確かに、弟子たちがイエス・キリストのことを「主」と呼び始めたのは、イエス・キリストがまだ十字架におかかりになるずっと前のころからでした。そして、その場合の「主」という言葉は、弟子たちだけがイエスをそう呼ぶのではなく、他の人々もイエスをそう呼んでいるのですから、そこに特別な信仰が表明されているとは思えません。一般的な尊称として、敬意をこめて「主よ」と呼んでいるだけにすぎないでしょう。ちなみに一番古い福音書と考えられているマルコによる福音書では、弟子たちは一度もイエスを「主」とは呼びません。マルコ福音書でイエスを「主」と呼ぶのはギリシア人の女性一人だけです(マルコ7:28)。

 それに対して、イエスを神であると最初に呼んだのは、福音書の中ではもっとも遅く書かれたヨハネ福音書の中で、復活して姿を現したキリストに対して「わたしの主、わたしの神よ」と呼びかけるトマスの言葉です(ヨハネ20:28)。

 これだけの記事を読めば、なるほど、どんな意味であるにせよ、イエスを「主」と呼ぶのが先で、「神」と呼ぶのは後からの出来事です。そして、イエスを「主」と呼ぶときの意味が、単なる尊称ではなく、それ以上の様々な意味がそこに付け加えられていくようになったのは、パウロの手紙を読めば明らかです。
 つまり、パウロの手紙の中では既に「主イエス・キリスト」という呼び方は固有名詞のように定着化していますが、パウロが「主」という言葉を使う時に、旧約聖書では主である神にだけ固有のことがらを、イエス・キリストに対しても用いています。たとえば、コリントの信徒への手紙一の8章6節にはこう書かれています。

 「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」

 この場合、唯一の父である神と、イエス・キリストとは区別されていますが、イエスは「唯一の主」であると呼ばれ、旧約聖書では主である神にしか帰せられなかった言葉…「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している」という信仰が表明されています。
 この場合の「主」という言葉は、単なる尊称どころか、明らかにイエスを「主なる神」と言っているのと等しいということが出来るでしょう。

 とすると、M・Sさんがおっしゃるように、単なる尊称にすぎなかった「主」という呼び名をイエスに対して使い始めるうちに、だんだんとイエスを「主なる神」であると信じるようになる信仰が芽生えてきたということなのでしょうか。
 しかし、「主」という尊称で呼ばれる人が皆、「主なる神」と思われるようになるわけではありませんから、「主」という呼び名がイエスを「神」と認識するようになるきっかけを作ったとはいえないでしょう。

 もう一つの疑問についてですが、あと時間が少ししかありません。結論から先にいうと、純粋な文章の構造の問題という意味では、新共同訳のように翻訳するのは、まったく無理がないどころか、古代語訳から現代語訳まで広い支持を得ていまるということです。むしろ、口語訳のようにその個所を神への頌栄と解釈して翻訳するのは、文章の構造からやや不自然な印象を受けます。

 では、なぜ、「キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」と翻訳する新共同訳聖書に対する反対があるのでしょうか。それは結局、パウロには他の個所でイエスを神と明言する個所が見当たらないからという根拠によるものです。しかし、先ほども見たとおり、イエスを神とほとんど同じ機能をもつお方としてパウロは描いているのですから、「イエスは万物を存在させる唯一の主である」という言葉に続いて、「イエスは永遠にほめたたえられる神である」という言葉を書いたとしても、不自然ではないように思います。