2011年4月6日(水) 古い人、新しい人とは 神奈川県 ポールパウロさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのポールパウロさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「聖書には『新しい人を着る』とありますが、古い人と新しい人とは誰を言っているのでしょうか。」

 ポールパウロさん、お便りありがとうございました。いつも番組を聴いてくださって感謝です。

 さて、今回のご質問はとても短い内容ですが、答えは決して短いものではありません。せっかくの機会ですから、聖書の個所に当たって、丁寧に見ていきたいと思います。

 まず、「古い人」「新しい人」という言葉が出てくる聖書の個所がどこにあるのか、その点から見ていきたいと思います。

 新共同訳聖書で「古い人」という言葉が出てくるのは、全部で二箇所あります。一つはエフェソの信徒への手紙4章22節で「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て」とあります。
 もう一か所はコロサイの信徒への手紙3章9節で「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」とあります。

 口語訳聖書と新改訳聖書をお持ちの方は、これらに加えてもう一か所、「古い人」あるいは「古き人」という言葉が出てきます。それはローマ人への手紙6章6節です。その同じ個所を新共同訳聖書は「古い自分」と訳しています。

 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」

 これらの三つの個所とも、訳語は若干異なっていますが、「古い人」「古い自分」ということです。そして、エフェソの信徒への手紙とコロサイの信徒への手紙に出てくる「古い人」というのは、後でも見ますが、「新しい人」との対比で出てきます。
 その「新しい人」との対比で出てくる「古い人」というのは、まるで服のようなイメージで、「脱ぎ捨てるべきもの」と描かれています。しかも誰かが脱がせてくれるものではなく、自分で脱ぎ捨てるものです。

 それに対して、ローマの信徒への手紙に出てくる「古い自分」というのは、その文脈の中では「新しい人」という言葉が直接に出てきて対比されているわけではありません。もちろん、言外にその含みがあることは言うまでもありません。
 そして、その「古い自分」というのは、自分で脱ぎ捨てるべきもの、というよりは、神がキリストと共に十字架につけてしまわれたもの、という点で、エフェソの信徒への手紙やコロサイの信徒への手紙に出てくる「古い人」のイメージとは少し異なります。

 しかし、三つの個所に共通している「古い人」というそのイメージは、罪とそれがもたらす結果に支配され、滅びに向かう人間の姿です。

 さて、それに対して「新しい人」という言葉は、全部で三つの個所に出てきます。エフェソの信徒への手紙2章15節と4章24節、それからコロサイの信徒への手紙3章10節です。
 口語訳聖書を読んでいる人はサムエル記上の10章6節にも「新しい人」という言葉が出てきますが、その場合の「新しい」というのは「別の」という意味で、「別人のように人が変わる」ということですから、「新しい」という意味はありません。ですから、そこは除外します。

 それから、エフェソの信徒への手紙に出てくる「新しい人」とコロサイの信徒への手紙に出てくる「新しい人」とは使われているギリシア語が違っています。エフェソの信徒への手紙が使っているのは「カイノス」という言葉で、コロサイの信徒への手紙が使っているのは「ネオス」という言葉です。どちらも「新しい」という意味ですが、、辞書的には、「ネオス」が「時間的に新しい」「若い」という意味に対し、「カイノス」の方は「質的に新しい」「新鮮な」という意味に用いられます。ただし、エフェソの信徒への手紙4章24節とコロサイの信徒への手紙3章10節に関して言えば、どちらも「古い人」との対比で出てくる表現ですから、「ネオス」と「カイオス」の間に厳密な区別があるようには思えません。

 むしろ、同じ「カイノス」という言葉が使われている「新しい人」でも、エフェソの信徒への手紙2章15節に出てくる「新しい人」というのは、敵対関係にあったユダヤ人と異邦人とがキリストによって「一人の新しい人」となるということですから、一つの新しい共同体のイメージとして「一人の新しい人」という表現が出てきているのだと思います。同じ文脈の中に「聖なる民に属する者」「神の家族」とありますから、個人よりも共同体のイメージが強くあります。

 それに対して、エフェソの信徒への手紙4章24節とコロサイの信徒への手紙3章10節に出てくる「新しい人」というのは、信仰者個人について語っているという点で、エフェソの信徒への手紙2章15節とは異なっています。

 さて、エフェソの信徒への手紙4章24節とコロサイの信徒への手紙3章10節に出てくる「新しい人」ですが、どちらも、造り主である神にかたどられた「新しい人」です。
 ここで言う神のイメージ、神の像というのは、いうまでもなく、創世記1章27節に言われている「神は御自分にかたどって人を創造された」という言葉が背景にあります。そして、「新しい人を着る」という表現は、この「神の像」を、堕落した人間は、ある意味で失っているということがその前提にあります。エフェソの信徒への手紙では「義とまことの聖さにかたどられた新しい人」(口語訳参照)、コロサイの信徒への手紙では「真の知識において新しくされた人」と言われています。義と聖さとまことの知識という点で、神の像を回復された新しい人を、わたしたちが着るようにと勧められているのです。

 ところで、コロサイの信徒への手紙3章10節が言っている「新しい人」という言い方は、少し興味深い表現です。直訳すれば「新たにされつつある新しい人」という言い方です。これは、新しい人を着ることですぐに新しさが完成するというよりも、むしろ、完成へと向かう新しい人のイメージです。この点はとても大切な点を表現しているように思います。

 最後に新約聖書の中では、「まことの神の像」といえば、イエス・キリストご自身がそうです(コロサイ1:15)。その意味ではイエス・キリストこそ、罪を犯して堕落した古きアダムに対して、命を与えるまことの人、新しいアダムということができるかもしれません(1コリント15:45)。そういう意味では、新しい人を着るとは、キリストを着ることでもあるのです。