2011年3月16日(水) 敵を愛するとは ハンドルネーム・ライトさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ライトさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、いつも番組を楽しみにしています。
さて、さっそくですが、質問があります。イエス・キリストは『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』とおっしゃっています。この場合、『敵』とは誰のことでしょうか。クリスチャン以外の人たちということでしょうか。それとも、わたしたちに対して損害を与える人、ということでしょうか。それとも精神的な嫌がらせをする人のことでしょうか。
いろいろと考えているうちに、そんな風に考えること自体が仮想の敵を作っていることになりはしないか、と思ったりもします。自分の敵が誰だかわからないなら、それは幸せなことだと言われてしまうかもしれません。確かに敵が誰だかわからないのに無理して敵を探し出そうとは思いません。しかし、考えようによっては、相手のことを『敵』だと思っているうちは、ほんとうに愛することはできないのではないかと思いました。
いったい、『敵を愛せよ』とおっしゃるその『敵』とはだれのことでしょうか。よろしくお願いします。」
ライトさん、お便りありがとうございます。ライトさんのお便りを読ませていただいて、ふとルカによる福音書の10章に出てくる律法学者の質問を思い出してしまいました。イエス・キリストが「善きサマリア人のたとえ話」を語るきっかけを作ったその質問です。
その律法学者はイエス・キリストに「隣人を愛せよ」という戒めが語っている「隣人」とは誰のことなのか質問しました。それに対して、イエス・キリストが「善きサマリア人のたとえ話」でお答えになったのは、「隣人とは誰か」ではなくて、「誰がその人の隣人となったのか」という発想の転換です。自分がその人の隣人となりさえすれば、その人は隣人愛の対象なのです。
しかし、きょうライトさんから受けたご質問は、同じような論理で答えるわけにはいきません。自分がその人の敵となりさえすれば、誰であれその人は愛を受けるべき敵なのです、とは言えないからです。
隣人愛で大切なことはわたしが隣人となることですが、敵を愛するということで大切なのは、敵を作ることでもなければ、わたしが進んで誰かの敵になることでもありません。
さて、そもそもイエス・キリストはなぜ敵を愛するようにとおっしゃったのでしょうか。このキリストの言葉が出てくるマタイによる福音書5章44節とルカによる福音書6章27節の文脈をよく見て見たいと思います。
まず、マタイによる福音書の文脈ですが、イエス・キリストが「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃったのは、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じている言い伝えに対してのことです。この言い伝えの前半部分は旧約聖書レビ記19章18節に命じられている隣人愛の勧めですが、後半はその解釈と言ってもよいと思います。つまり、律法学者の質問にあったように「隣人とは誰か」ということを問いただしてくうちに、そこには「敵」は含まれないという言い伝えの解釈が生まれたのです。ですから、この言い伝えによる律法解釈では、敵を除外した隣人愛を行えば、それで十分に律法を守ったということになります。あるいは、後半部分にもっと積極的な意味があるとすれば、敵を除外した隣人愛の実行だけでは十分ではなく、敵を排除し憎むことも律法の義務だとする考えです。
ところで、この言い伝えが語っている「敵」とは誰のことなのでしょうか。それは「隣人愛」を命じるレビ記19章18節にさかのぼって考える必要があります。
レビ記では「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい」「民の人々に恨みを抱いてはならない」という言葉などと並んで「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めが登場します。
この狭い文脈の中でだけ考えるとすれば、そこで言われている「隣人」とは「兄弟」「同朋」「民の人」のことを指していると理解されてしまわれがちです。つまり同じ共同体の中での「愛」の問題です。言い伝えの律法解釈はその共同体の外にいる人々を敵と考え、敵に対して愛を果たす責任はないとする教えです。
しかし、イエス・キリストはそのような律法の解釈に異議を唱えていらっしゃるのです。「隣人を愛し、敵を憎め」とする先祖たちの言い伝えに対して、言い伝えが隣人から除外してしまっている「敵」をも愛することが、隣人愛を説く神の律法の精神だとする主張です。
この場合、「敵」とは具体的に誰のことを言っているのかをあえて言うとすれば、それは当時のユダヤ人が自分たちの仲間とはみなしていなかった異教徒たちということができるでしょう。
しかし、イエス・キリストはこの律法の解釈をユダヤ人一般に対してではなく、ご自分の弟子たちにお語りになったと考えられます。このキリストの言葉が出てくるのは、弟子たちに語られた「山上の説教」に出てくる言葉だからです(マタイ5:1-2)。
イエス・キリストは「敵を愛せよ」という言葉に続けて「自分を迫害する者のために祈りなさい」ともおっしゃっています。さらに続けて「(あなたがたの天の)父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と、その理由を述べていらっしゃいます。
つまり、自分を迫害する者も「敵」の中に含まれますが、しかし、その人も隣人愛の対象から意図的に除外してはならないのです。要するに、天の父なる神が正しい者にも正しくない者にも太陽を昇らせ、雨を降らせるように、そのような態度ですべての人に対して隣人としての愛を行うことを求めていらっしゃるということです。
ルカによる福音書の6章27節の文脈もほぼ同じです。ただ、ルカ福音書の場合は、対比されている言い伝えの律法解釈が記されていませんので、「しかし」という書き出しの言葉が、何に対しての「しかし」なのかは、マタイ福音書ほどはっきりとしていません。
ルカによる福音書は「敵を愛せよ」という言葉に続けて「あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」という言葉を記しています。
マタイによる福音書の場合もそうでしたが、「敵」というのは「わたしが憎んでいる人」「わたしが悪口を言いたくなるような人」のことではありません。相手が一方的にわたしを憎み、わたしの悪口を言い、わたしを侮辱するような、そういう相手のことです。わたしが好んで誰かを敵に仕立て上げ、自作自演の隣人愛を演じることではないのです。
ルカによる福音書の文脈をさらに読み進んでいくと、こう書いてあります。
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。」(ルカ6:32-33)
わたしたちが行う隣人愛は、ややもすると自分の好まない人を排除した隣人愛にすぎません。イエス・キリストはそのことを問題としているのです。憎しみや敵対心を乗り越えた隣人愛、それが「敵を愛せよ」とおっしゃるイエス・キリストのおっしゃりたいことではないでしょうか。