2011年3月2日(水) 伝道するのは牧師だけの仕事? 神奈川県 T・Yさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのT・Yさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生に質問です。先日、こんなことを耳にしました。新約聖書には『伝道する』という言葉はなく、あるとすれば、『ケーリュッソー』という言葉がそれに当たるそうです。そして、その言葉はすべて任職された人にだけ用いられる言葉で、新約聖書では『信徒の伝道』ということは求められていないということだそうです。ほんとうにそうでしょうか。」

 T・Yさん、ご質問ありがとうございました。だれがどんな文脈の中で、どういう意図でそうおっしゃったのか分かりませんが、ご質問を読んでちょっとびっくりしてしまいました。その話の結論が、信徒による伝道は聖書の求めていることではない、ということであれば、いったいその結論がどこから導き出されたのか、首をかしげたくなってしまいます。

 とにかく、ご質問いただいたお便りの言葉に従って、順番に検証していきたいと思います。

 まず、T・Yさんの伝えるところによると、新約聖書には「伝道する」という言葉がないということです。日本語だけで調べるとすれば、確かに新共同訳聖書にも口語訳聖書にも、また新改訳聖書にも「伝道する」という言葉は出てきません。
 しかし、新改訳聖書と口語訳聖書には三度、「伝道者」という言葉が出てきます。ギリシア語では「エウアンゲリステース」という言葉です(使徒21:8、エフェソ4:11、2テモテ4:5)。新共同訳聖書では「福音宣教者」と訳されています。
 この「エウアンゲリステース」という言葉のもとになっている言葉は「エウアンゲリオン」つまり「福音」です。その動詞形である「エウアンゲリゾー」はそれ一語で「福音を伝える」という意味です。この言葉は新約聖書に54回出てくる言葉ですから、決して珍しい言葉ではありません。そして、この動詞から生まれた「福音を伝える人」という意味の言葉が、先ほど出てきた「エウアンゲリステース」、つまり、「伝道者」あるいは「福音宣教者」です。ですから、「伝道する」という日本語そのものは新約聖書の中に出てきませんが、「福音を伝える」のも、「伝道する」のも同じことですから、それは単に翻訳の問題にすぎません。ですから、新約聖書に「伝道する」という言葉がないというのは、半分本当ですがしかし半分は嘘です。

 では、「ケーリュッソー」という言葉はどういう意味でしょうか。先ほど「エウアンゲリゾー」という単語だけで「福音を伝える」という意味があると言いましたが、「エウアンゲリオン」を「ケーリュッソーする」という言い方もあります(マタイ4:23、1テサロニケ2:9)。「福音を宣べ伝える」とか「福音を伝える」などと訳されています。
 他にも目的語に「神の国」や「悔い改めの洗礼」などを取って、「神の国を宣べ伝える」「悔い改めの洗礼を宣べ伝える」などという言い方もあります。
 しかし、「ケーリュッソー」という単語それ自体には、今日、わたしたちが言うところの「伝道をする」という意味があるわけではありません。ですから、「伝道をする」という単語を「ケーリュッソー」だけに限定して考えることはできません。

 新約聖書には、「エウアンゲリゾー」や「ケーリュッソー」以外にも、神の教えや救いの出来事を伝える言葉があります。「教える」「語る」「話す」などバラエティに富んでいます。

 ところで、T・Yさんの聞いた話では、「ケーリュッソー」という言葉は特別に任職された人にだけ使われている言葉だということですが、ほんとうにそうでしょうか。そして、もしそうであるとして、そこから「伝道するのは信徒の働きではなく、特別に立てられた人に限られる職務である」という結論を導き出すことができるのでしょうか。

 まず、結論からいうと、そういう議論は「沈黙からの議論」と呼ばれるものです。信徒が伝道することを積極的に禁じている個所があるのであれば話は別ですが、たまたま「ケーリュッソー」という言葉が用いられているのが、特別に任職されたり選ばれたりした人だけである、という現象が見られたとしても、そこから何か積極的な結論を引き出してくることは大変危険な議論です。

 こうした議論の馬鹿らしさは、次のような問いを立ててみることで、すぐにわかると思います。

 「ケーリュッソー」という言葉は、女性について使われているでしょうか。「ケーリュッソー」という言葉は70歳以上の人について使われているでしょうか。「ケーリュッソー」という言葉は日本人について使われているでしょうか。それらの人たちに使われているという積極的な証拠がなければ、女性は伝道してはいけない、70歳以の人は伝道してはいけない、日本人は伝道してはいけない、と結論出来るでしょうか。それは無謀な結論でしかありません。

 では、実際に初代教会ではどうだったのでしょうか。使徒言行録には興味深い記事が記されています。

 先ほど「伝道者」という言葉を紹介しましたが、その言葉が用いられている一人はフィリポという人物です(使徒21:8)。この人は、エルサレムの教会で日々の食事の分配のことで、ギリシア語を話す人たちとヘブライ語を話す人たちとの間で争い事が起こったときに立てられた七人のうちの一人です(使徒6:1-5)。その時、使徒たちが言った言葉はこうでした。

 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、”霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」

 つまり、選ばれた七人は食事分配の世話係で、彼らのお陰で使徒たちは御言葉を語ることに専念できたと言うことです。しかし、選ばれた七人のうちのフィリポはエチオピアの高官に聖書の言葉をひも解いて、イエス・キリストを紹介し、洗礼にまで導きます(使徒8:26-38)。つまり、御言葉の奉仕に専念するはずの使徒たちばかりか、この食事分配のお世話係のフィリポまで伝道しているのです。

 確かにフィリポは使徒たちによって特別な働きのために立てられた人物なので、平信徒ではないと言われるかもしれません。

 では、プリスキラとアキラの場合はどうでしょうか。この夫婦は、ローマから退去させられたユダヤ人で、テント造りを仕事としていた人です(使徒18:1-3)。文字通り、普通の信徒です。
 この夫妻は、イエスのことについて熱心に語っていたアポロを自分たちの家に招いて、「もっと正確に神の道を説明した」とあります(使徒18:26)。これは伝道にほかなりません。

 T・Yさんがお聞きになったという方のお話を、わたしは直接聞いたわけではありませんので、どこまで正確なのかわかりません。また、その話の意図も分かりません。

 しかし、少なくとも初代教会の人たちは、使徒たちにに限らず、普通の信徒であっても自発的に機会をとらえて伝道した、ということはまぎれもない事実です。