2011年2月23日(水) 人生に満足する道 ハンドルネーム・主の僕さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・主の僕さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「BOX190へ質問をどうぞ、ということですので宜しくお願いします。私のみじかな方の素朴な思いですが取り上げて頂ければ感謝です。貪りの罪についてです。
 一流といわれる商品などは高額ですが確かに良いものが沢山あります。私たちはより優れているものを知るとだんだん現状に満足出来なくなっていきます。神様は優れたものを味わう能力も人間にくださっていますから、例えば朝のパンでもより美味しいパンが食べたくなるのです。
 しかし、必要以上に人間の欲望を掻き立てるサタンの誘惑もあると思います。自分の賜物、持ち物など、生きるための全てに人を羨むことなく、与えられる人生に心から満足する道を見つける方法を教えて下さい。主の僕より」

 主の僕さん、お便りありがとうございました。人間がよりよいものを求めて努力を積み重ねていく向上心と、飽き足らない欲望を満たすために、もっともっとと欲しがる貪欲とは、時として区別しがたい部分があります。
 お便りの中にもあった通り、美味しいパンを食べたいという思いは、ただの貪欲なのか、それとも人間にとって大切な向上心なのか、区別しがたい面があります。
 確かに栄養価が同じであれば、美味しかろうが不味かろうが、健康を維持していくためには何のプラスにもなりません。美味しいものを食べたがるのは、ただの貪欲にすぎないと片づけてしまえばそれまでです。
 しかし、より美味しいものを作ろうとするから、豊かな食文化が生まれてくる、という面も否めません。たとえ栄養価が同じであっても、味や見た目が良い料理であれば、食卓の会話も豊かになってきます。そういうことを思うと、質素や倹約ばかりが人間にとって善いものだとは言い切れません。

 あるいはスポーツはどうでしょう。零コンマ何秒という差で金メダルと銀メダルの差を競い合うスポーツは、人間の向上心からきているのでしょうか、それとも賞や栄誉を求める人間の貪欲や虚栄心の現れなのでしょうか。
 確かに0.01秒速く走れたからといって、それより3秒遅く到着した人と、実生活の上でものすごい違いがあるのか、というとそんなことはないでしょう。だから、そこそこの速さで走れるなら、それ以上を求めるのは、貪欲と虚栄心だといってしまえばそれまでです。
 しかし、競技があるおかげで、人間に与えられた能力がどれほどのものであるのか、改めて知ることができると言う面もあります。また、能力がただ先天的なものだけではなくて、努力することによって伸ばせるものであるということも、熾烈な競争があるからこそ、はっきりと結果に出てくるものです。そこからしても現状に満足することだけが善いことだとは言い切れません。

 しかしながら、これでは質問者の質問の意図とはかけ離れていく一方です。お便りの中にもあった通り、必要以上に人間の欲望を掻き立てるサタンの誘惑もある、というのも、まさにその通りであると思います。

 ご質問のお便りを読みながら、ふとパウロがフィリピの信徒へ宛てた手紙の中で記している言葉を思い浮かべました。

 「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(フィリピ4:11-12)

 わたしも、この秘訣をぜひ授かりたいと思う者の一人です。
 ただ、パウロのこの言葉もよくよく注意して読むと、豊かな暮らしや満腹な状態、ものが有り余っていることを頭から否定しているわけではありません。また貧しく、空腹で、不足した生活を送るようにとあえて勧めているわけでもありません。自分の置かれた境遇がどんなものであったとしても、それに満足して生きるすべを身につけることが大切なのです。

 パウロはそう述べた後で「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と記しています。パウロがそのような秘訣を身につけることができたのは、まさに神のお陰だと述べているのです。
 この点は見過ごしてはいけない大切なポイントであるように思います。パウロは何だかわけのわからない修行を積み重ねた結果、悟りの境地に達したといっているわけではないのです。神と共にある生活の中で、どんな境遇の中にあっても神の力と恵みを知る満足を覚えたといってもよいでしょう。

 そもそも、人が不満や貪欲に陥る一番のきっかけは、他人と自分を比べるときです。もちろん、他人と自分を比べて、あの人のようになりたい、と思うことがいけないというわけではありません。努力してあこがれの人のようになれるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。
 しかし、人の境遇を羨む結果、インチキな努力や不正な手段を使ってでも今の境遇から抜け出そうとするときに、サタンの大きな誘惑があるのだと思うのです。
 インチキや不正な手段に訴えようとするのは、それは今の境遇を神からのものとして、真摯に受けとめる気持ちが欠けているからです。また、神から自分にあたえられた賜物を正しく知ろうとしないからです。
 誤解のないようにいいますが、病気や貧困のうちにあることは、神の与えた境遇なので、黙ってそれを我慢しなさいといっているのではありません。事実、パウロでさえ、自分に与えられたトゲを取り去ってくださるようにと神に何度も訴えました。決して最初からその境遇に甘んじていたわけではありません(2コリント12:7-8)。
 けれども、神への祈りの中で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とおっしゃる主の言葉の意味を確信して、喜んで自分の弱さを誇ることができるようになったのです。

 わたしたちに大切なことは、その境遇にとどまるべきなのか、それとも神から与えられた能力を生かしてその境遇から抜け出して、向上すべきであるのか、その見極めを神との祈りの中で見出す姿勢ではないかと思うのです。その姿勢が欠けるときに、どんな境遇にも満足できない体質になってしまうのだと思うのです。

 もちろん、一つの境遇にとどまることは、向上しないことと同じではありません。不足した境遇の中で人格を練り上げていくこともできます。病を得た中で、誰にも習得することのできない感性を磨きあげていくこともできます。
 肝心なことは、今与えられている境遇と才能をどのように活用して生きることが、神の御心であるのかを真面目に考えることです。そうすれば自己満足のために貪欲に走ることから、身を守ることができるはずです。