2011年2月16日(水) クリスチャン判定第三者機関? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「キリスト者の方を見ていると、それぞれ信仰の度合いというか深さが違います。信仰生活の長さやその内容によって変わってくるのだと思います。
しかし、今まさに洗礼を受ける人の信仰の深さが違うというのはおかしなことだと思います。ある教会では、1年近くの学び会を経て、いわゆる教理も含めて学んでから受洗を迎えるのに対して、他の教会では1月や3月間の学びですぐに洗礼を与えるところもあります。『イエス・キリストが救い主だ。』ということが分かっていれば良いということなのかもしれませんが、実際にはイエスがどういうことを教えているのか、新旧約聖書はおろか福音書でさえ満足に知らないで受洗をしている人々もたくさんいます。イエスの教えがどういうものなのかを知らない状態で、イエスの弟子になる決意はできないと思うのです。そういうあいまいな知識や信仰でキリスト者になると、そのキリスト者を見る未信者の人々の間で、キリスト教そのものに対する間違った理解や偏見を生む温床になりかねません。
そこで、受洗する場合に、いわゆる所属教会の牧師などの諮問を受けるのではなく、キリスト教の第3者機関が受洗前の諮問を行うというのはいかがでしょうか。」
tadaさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また、今回はとてもユニークなご意見をありがとうございました。確かにそうだ、とうなずける部分もありますが、しかし、実際にご提案の通りにすることができるのかどうか、そして、そうすることにほんとうに意味があるのかどうか、わたしには疑問に思う点も少なくはありません。
とりあえず、いただいたお便りの内容にそって、思うところをお話しさせていただきたいと思います。
いただいたtadaさんのお便りの中に、「実際にはイエスがどういうことを教えているのか、新旧約聖書はおろか福音書でさえ満足に知らないで受洗をしている人々もたくさんいます。イエスの教えがどういうものなのかを知らない状態で、イエスの弟子になる決意はできないと思うのです。」とありました。
確かに、イエス・キリストの教えをまったく知らないのにキリストの弟子になるというのはあり得ない話です。しかし、キリスト教についてほとんど知らないので、是非知りたいし、信じてみたいと思う人は少なからず世の中にはいます。教会ではそういう人のことを求道者と呼んだりしています。
さて、その求道者も教会の礼拝に通い、聖書を読んだり、学んだりするうちに、だんだんとキリスト教のことが分かり始めて、やがて洗礼を受けようと決心します。ただし、どのタイミングでそういう決心の時が訪れるのかは、まったくだれも予想することはできません。
聖書を一通り読んで、どこに何が書いてあるのか言えるようになっても、それでも信じる決心ができない人もいます。逆にどこに何が書いてあるのかはうろ覚え程度にしか聖書を知らない人でも、書かれている事柄に深く心を動かされて信じようという決心を抱く人もいます。
この場合、知識があっても決心がつかない人に洗礼を授けるということはあり得ませんが、しかし、決心をしたからといって、無条件に洗礼を授けるということもありません。どういう知識に基づいて、どんな決心を決心をしたのか、そこを問題とします。
どこの教会でもそうだと思いますが、洗礼を受けるときには、信仰の告白をし、教会員となるための誓いが求められます。そのとき告白していただく信仰の内容と誓約の言葉は、教派によって多少の違いがあるかもしれませんが、基本的なキリスト教信仰がそこには含まれています。
それは決して教理問答すべての知識を求めてはいませんし、聖書66巻のすべてを一通り知っていなければ不合格になる言うような難しいものでもありません。
しかし、この基本的なキリスト教信仰の理解がないのに洗礼を授けるというのであれば、それはtadaさんのおっしゃる通り大きな問題です。そういう教会が実際にあるとすれば、それはよほどおかしな教会だとわたしは思います。そして、それほどおかしな教会であるとすれば、たとえ第三者機関を作ったとしても、それを無視して洗礼をさずけることでしょうから、第三者機関を設けても問題は解決しないでしょう。
ところで、基本的なキリスト教信仰の知識のことですが、教会がその人に洗礼を授けるかどうかを判断するのは、ただ、基本的はキリスト教信仰の知識があるかどうか、ということだけをチェックしているわけではありません。知識のあるなしも大切な問題ですが、さらに大切なことは、そうしたキリスト教信仰に立って生きようとしているかどうか、ということです。信仰が知識だけの問題ならば、第三者機関が実施する全国統一テストでも受けてもらえばそれで済むことですが、信仰は知識だけの問題ではありません。教会はその人の信仰的な決心が真実なものであるのかを、可能な限り見極めたうえで洗礼を授けるものです。そういう作業というのは、その人の教会生活を知らない第三者機関では判断ができないことです。
さて、tadaさんのお便りを読んでいて、信仰を知識の問題として捉える傾向が強いように感じました。もちろん、知識がまったくないのに信仰を持つということがあり得ないというのは当然のことです。しかし、tadaさんの場合、その知識の内容と程度を大変高い所に持って行っているように思いました。洗礼を受ける時点で、いったいどの程度の知識を求めるのか、という問題にはとても注意深くある必要があるように思います。神学者や牧師に求められるような知識がなければ洗礼を受けることができないとなれば、ほとんどの人はいつまでたっても洗礼を受けることができなくなってしまうでしょう。
それから、これと関連することですが、あまりにも知識尊重に傾きすぎてしまうと、それだけで様々な意味での弱者がキリスト教会から排除されてしまう結果になってしまう危険があります。たとえば、もの覚えがおぼつかなくなってしまった高齢者で、洗礼を受けたいという人がいた場合、高い知的水準を設ければ設けるほど、そう言う方々が教会から排除されてしまいます。そう言う方たちに、少なくとも新約聖書を読んで理解できるまでは洗礼をさずけることができません、ということにいったいどんな意味があるのでしょうか。
クリスチャンの粒をそろえることは大切なことかもしれませんが、しかし、粒がそろってないないからこそ、教会らしい共同体を形作っていくことができるのではないでしょうか。
最近では「大学卒」という肩書も、実際にはどの大学の卒業生かで実力に差があるのが現実です。もちろん、例外もあるでしょう。しかし、「大卒」の肩書が、もはや全世界は言うに及ばず、日本国内でさえ学校間の格差のために同等の意味を持たなくなっているのは歴然とした事実です。tadaさんの目からすれば、こちらの方がさらに憂慮すべき問題かもしれません。
ただ、大学は学問の最高学府ですから、レベルが下がらない努力は当然すべきでしょう。しかし、教会はそうではありません。信仰から外れることは許されませんが、信仰の一致の中で、様々な度合いの信仰を受け入れながら一つの共同体として存続していくべきものであると思います。