2011年1月26日(水) エクレシアとは? 山形県 Y・Wさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「『教会』という言葉はギリシア語で『エクレシア』と言われますが、教会とはキリストを信じた者の集まり(群れ)のことであって、『集会』と訳してもよいとも言われます。
聖書には二種類の教会が出てきて、一つはエペソ書で説明されている『キリストを信じて救われたすべての者が入る天的な普遍的な教会』すなわち『キリストの体なる教会』と、もう一つはコリント書等で説明されている地上にある地域教会(集会)があるといわれていますが、ギリシア語のエクレシアの意味も含め、教会について教えていただければと思います。」
Y・Wさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また聖書に関するたくさんのご質問をお寄せくださって、リスナーの方たちとご一緒に学ぶ機会を提供してくださって感謝です。
それでは、今回のご質問、エクレシアの聖書的な意味について、さっそくご一緒に聖書から学んでみたいと思います。
まず、一般的に「教会」と日本語で翻訳されているギリシア語の「エクレシア」という単語から見てみたいと思います。このエクレシアという単語は、「エクカレオー」という動詞から派生した名詞で、動詞の意味は「召し出す」「招集する」という意味です。ですから、名詞の「エクレシア」は本来「招集された者たちの集会」という意味で使われる言葉でした。新約聖書の中では、ほとんどが「教会」の意味で使われていますが、世俗の集会のことをさして「エクレシア」という単語で呼んでいる例がないわけではありません。たとえば、エフェソで起こった群衆たちの混乱した無秩序な集会を、使徒言行録は「エクレシア」と呼んでいます(使徒19:32,40)。
ギリシア語訳旧約聖書である七十人訳聖書では、このエクレシアという名詞は、主にヘブライ語の「カーハール」(集会、会衆)の訳語として出てきます。この「カーハール」は、「主のカーハール(主の会衆)」(申命記23:3)と呼ばれたり、「イスラエルの全カーハール(イスラエルの全会衆)」(レビ記16:17)などと呼ばれたりしますが、こうした旧約聖書での使われ方とのつながりも、新約聖書における「エクレシア」という言葉を理解する上で考慮に入れなければならない事だと思います。最初の殉教者ステファノはその説教の中で「荒れ野のエクレシア(集会)」という言葉を使っていますが、新約聖書の時代になって、忽然とエクレシアが出現したのではなく、旧約時代から連綿と続く神の民の共同体として自分たちのエクレシアを意識していたのでしょう。
おもしろいことに、わたしたちは「キリスト教会」という言葉をよく使いますが、聖書には「神の教会」(使徒20:28、1コリント1:2他)という言い方はしばしば登場しますが、「キリストの教会」という言い方は一度だけしか出てきません(ローマ16:16)。また、旧約聖書には先ほども見たとおり「主のカーハール」という言い方がありますが、新約聖書には「主のエクレシア」という言い方はありません(一部の写本では使徒20:28は「主と神の教会」)。その代わり、キリストは「教会のかしら」であるといわれますが(エフェソ5:23)、「神は教会の頭である」という言い方は出てきません。
では新約聖書が語る教会とは何か、ということをもっとも端的に語っている聖書の言葉は、使徒言行録20:28に出てくる「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」という言葉です。その言葉によれば教会とは神がキリストの贖いの血によってご自身の者とされた神の民の集まりなのです。
さて、お便りの中にもありましたが、「エクレシア」という単語は一教会に対しても、また、普遍的な教会に対しても用いられています。たとえば、パウロの書簡が宛てられている具体的な一教会を「コリントにある神のエクレシア」(2コリント1:1)と呼んでいますが、ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの諸教会を単数形でエクレシアと呼ぶ場合もあります(使徒9:31。なお15:41、16:5と比較。こちらの用例は複数形)。諸教会を単数形でエクレシアと表現するときには普遍的な一つの同じ教会がその意識の中にあるのでしょう。集会の数、建物の数だけ教会があるのではなく、それらを一つの同じ集まりと考えていたので、単数形を用いたと考えられます。
ところで、キリスト教の教理を論じるときには、教会の概念をいくつかのカテゴリーに区別して論じます。
キリスト教教理では、普遍的な教会ということを考えるときに、現在地上にある教会だけを一つの普遍的な公同の教会と考えるのではありません。天上と地上の教会、過去、現在、未来の教会をも含めて普遍的な公同の教会と考えています。キリストを信じつつすでに世を去ってしまったクリスチャンは、普遍的な教会の外へ行ってしまうわけではありません。依然としてこの普遍的な教会のメンバーなのです。この意味での教会をキリスト教の教理の用語で「見えない教会」と呼びます。それは人間の目には見えない教会ですが、神だけがご存じである真の教会だからです。
それに対して、この「見えない教会」と区別して具体的にこの地上に存在する教会を「見える教会」と呼びます。しかし、この地上の教会が誤りを含んでいるからという理由で、普遍的な教会と区別して考えるべきではありません。普遍的な教会イコール理想的な教会イコール天的な教会という図式で単純に考えるべきではありません。
もちろん、「見える教会」「見えない教会」という用語自体は聖書に出てくる言葉ではありません。聖書が語る様々な教会の側面を区別するために考えだされた用語です。
また聖書が教会について語るときには、キリストを頭とし、その頭に有機的につながる体として教会を表現する場合があります。その場合には教会を構成するメンバーは体を構成する手や足や目や口に例えられます。とくにコリントの信徒への手紙一の12章12節以下で展開される霊的な賜物についての議論は、この有機的な体としての教会のイメージが大きくかかわっています。教会のメンバー一人一人は他のメンバーを必要として、頭であるキリストに向かって一つの体である教会を建て上げていくという教会の姿です。
最後に、使徒信条に出てくる教会論に少しだけ触れて置きたいと思います。教会で告白される使徒信条には「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」と続きます。教会は聖霊の働きの中で論じられているということが、第一点です。神は聖霊の働きを通して人々を教会へと召しだしてくださいます。
そして、使徒信条は「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」と表現して、教会の本質が聖徒の交わりにあることを示しています。教会というのは一人の信徒から成り立つわけでもありませんし、ただ、個々の信者がキリストとだけつながっているというのでもありません。キリストを信じるすべての信徒の交わりによって成り立っているのです。使徒信条はそのことこそ聖書が教える教会の本質であるとして告白しているのです。