2010年12月15日(水) 奇跡について 熊本県 K・Iさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は熊本県にお住まいのK・Iさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。いつも楽しく聴かせてもらっています。
さて、きょうは『奇跡』について質問させてもらいます。
ひとり歩きのイエスにとって、多くの功績がなされました。病人をいやし、さらに無を有にしたイエスでした。
さて、現在のわたしたちにとって今もそれが可能なのでしょうか。先生はどう思われますか、お聞かせください。」
K・Iさん、お便ありがとう御座いました。「奇跡」についてのご質問は、今までにもこの番組でいろいろな形で取り上げたことがあったかと思います。「奇跡」に関するご質問をいただくたびに、ついいつい関心をいだいてしまうことは、質問者の背景や質問の動機についてです。
「奇跡は今も可能なのだろうか」という疑問には、その質問をする人によって様々な意味が込められていると思います。
ある人にとっては純粋に知的な興味と関心から、それを知りたいという人もいます。また別な人にとっては、もし奇跡というものが今もあるなら、それを見てみたいという好奇心から、そのことを尋ねる人もいます。さらに別な人にとっては、奇跡にすがるしか希望が持てないほどに病に冒されていて、藁をもつかむ思いで奇跡について知りたいと思う人もいます。
ある人にとっては奇跡について思いを巡らせることで信仰に目覚める人もいれば、逆に奇跡について考えれば考えるほど信仰から離れて行く人もいます。
そういう意味では、この質問にはただイエスかノーか、という単純な答えではすまされないものがあるように思います。
さて、ご質問にお答えする前に、「奇跡」とは何かという言葉の定義が大切だと思います。一般的な意味では「常識では起こるとは考えられないような、不思議な出来事や神秘的な出来事」をさして「奇跡」と言います。たいていは、結果的に何らかの益をもたらすものに限って「奇跡」といいます。
たとえば、常識では助かる見込みがないのに助かったような場合、「奇跡的に助かった」と言います。しかし、逆に常識では絶対に助かるはずの人が助からなかった場合には、「奇跡的に助からなかった」とは普通言いません。
もっとも、その人が独裁者で国民全員がその支配に終わりが来ることを願っているような場合には、「奇跡的に助からなかった」という表現も使えなくはありません。なぜなら、助からなかったことが、その国民にとって益と思えるからです。
もう少し厳密な意味での「奇跡」という言葉の定義は、単に「常識を超えた不思議な出来事」ではなく、「自然法則を超越しているかどうか」、そのことが問題となります。一般常識では起こりえないような不思議なことでも、科学的に解明できるものは、もはや「奇跡」とは呼びません。言い換えれば、条件さえ整えれば誰でもできるようなことは、たとえそれが不思議なことであったとしても、奇跡とは言わないのです。
しかし、自然法則を超越してさえいれば、それはすべて奇跡の名に値するのかというと、必ずしもそうではありません。たとえば、わたしは自分の目から猫を生むことができる、と言ったとしても、それを奇跡だと呼んでくれる人はおそらくいないでしょう。なぜなら、そのような不思議な技は、たとえ自然法則を超越していたとしても、何の意味もないからです。そういうものは普通、奇跡とは呼びません。
さて、聖書が「奇跡」と呼んでいるものは、それよりももっと狭い意味のものです。
一つは、その自然法則を超越した業が、神から出ているかどうか、という点です。もうひとつは、それが神からのものであるとするならば、そこに神からのどのようなメッセージが込められているか、ということです。
たとえば、マタイによる福音書の12章22節以下に、イエス・キリストが目が見えず口が利けない人をお癒しになった記事が出てきます。しかし、それを見ていたファリサイ派の人たちは、この奇跡を悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと決めつけて、それを神の力によってなした業だとは認めませんでした。確かに自然法則を超越した出来事であることは、認めざるを得ないとしても、それが神によってなされてはいないという点で、奇跡やしるしに値しないと言うのです。
もちろん、この場合、イエス・キリストが反論していらっしゃるように、このキリストの業は、神の国がキリストとともに到来しているというメッセージを含むものですから、奇跡にほかなりません。
ファリサイ派の人々は結論的には間違った判断を下してしまいましたが、奇跡とそうではないものを区別する基準を、神からのものか、悪霊からのものか、とする点では正しかったと言えると思います。
つまり、聖書的な奇跡の基準は、それが神から出たものであり、そこに神からのメッセージが伴っているかどうか、そこが重要な点なのです。
さて、この聖書的な意味での奇跡が今もなお起こるのかどうか、ということは、神からのメッセージの必要性ということと大きく関係しているということです。
少なくとも救いに必要なメッセージは現在では聖書の中に必要で十分な情報が伝えられているのですから、聖書では足りないということがない限り、聖書的な意味での奇跡は起こらないと私は思っています。なぜなら奇跡を起こす必要がないからです。
ルカによる福音書の16章に金持ちとラザロの話が出ていますが、死後の世界で苦しみ悶える金持ちは、死者の中から誰かがよみがえって兄弟たちのところへ行けば、兄弟たちはきっと悔い改めて自分のような目に遭わずにすむと主張します。しかし、返ってきた答えはこうでした。
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。…もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(ルカ16:31)
旧約聖書しかなかったあの時代でさえ、そうなのですから、神の啓示が完結した今は、新旧両約の聖書を読めば、新たな奇跡によってメッセージを伝えなくても十分に神の御心を知ることができるということです。
もちろん、世の中には不思議なことや科学では説明できないことがたくさんあるかもしれません。そのこと自体を否定するつもりは全くありません。しかし、聖書的な意味でそれを奇跡と呼ぶべきかというと、わたしにはそうは思えません。なぜなら、救いにかかわるメッセージは聖書の中に必要十分に記されていて、それ以上の奇跡を必要としていないからです。