2010年12月8日(水) 孤独と寂しさから解放されるには? 大分県 N・Aさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのN・Aさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「質問があるのですが、孤独でさびしい日々を、何をしてもつらい日々を送っているのですが、どうしたら少しでもよくなるか、よかったらメッセージよろしくお願いします。」
N・Aさん、いつも番組を聞いてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、ほんとうに胸の痛む思いがいたしました。
N・Aさんのことは直接には存じ上げていませんので、的外れなことを言ってしまうかもしれません。失礼がありましたら、どうぞお許しください。
そもそも「孤独」とは何かということを国語辞典で調べてみました。孤独でさびしさを訴えているN・Aさんを前にして、悠長に国語辞典を開くというのは、何ともがっかりな応対だと思われてしまうかもしれません。しかし、どこから話を始めたらよいのやら、いろいろ考えるところがあって、まずは「孤独」という言葉についてのお話から始めることにしました。少しだけ辛抱して、話を聞いていただけたらと思います。
「孤独」という単語が意味していたことは、もともとは「みなし子と年老いて子がないひとり者」のことだそうです。難しい言葉ですが「鰥寡孤独」(かんかこどく)と言うと「妻を失った男と、夫を失った女と、みなしごと、老いて子のない者。よるべない人。世にたよりのない身分の人」(広辞苑)を指す言葉です。
もともとの意味をたどっていくと、「孤独」というのはとても具体的なイメージの言葉であったということが分かります。
配偶者を失って独り身になったり、親を失ってみなし子になったり、たよれる子供がいないまま年をとってしまったり、そこにはただ独りであるという物理的な意味だけではなく、頼れる人間関係、助け合える人間関係がない、という心もとなさや寂しさが含まれています。
同じ独りであることをあらわすことばでも「孤高」と言えば、むしろ他を寄せ付けない、他を必要としない、超然とした境地にあることを表しています。物理的には孤独も孤高も独りでいることなのですが、孤高であることは決して孤独であることと同じではありません。
ところで、そもそもの「孤独」という言葉は、先ほども見たとおり、独りになってしまったのには具体的な理由がある言葉でした。配偶者を失うとか、親を失うとか、そういう理由です。しかし、「孤独」という言葉が表しているのは、理由はともあれ、頼ったり、助け合ったり、励まし合ったりできる人間関係がないことを広く意味しています。さらに「孤独感」といえば、孤独であることから生じる心もとなさや寂しさを含んでいます。それはただ単に文字どおりの一人ぼっちであるとは限りません。たくさんの知人友人に囲まれながらも感じることがある感覚です。
さて、なぜこんな前置き話をしたかといいますと、孤独がただの一人ぼっちのことだけであるとすれば、それを解決するのはそれほど難しいことではないように思えるからです。人が集まるところに身をおけば、それでもはや独りではなくなるからです
しかし、今見てきたように、孤独とはただ一人でいる状態だけの問題ではありません。人間らしい交わりがなければ、孤独の解決にはならないからです。
ところで、旧約聖書の一番最初に置かれている書物である『創世記』を読むと、神は天地万物をお造りになったとき、それをご覧になるとはなはだよかったということです。ところが、一つだけよくないと見えるものがありました。それは、人が独りでいることです。神は最初にアダムをお造りになりましたが、そのアダムを見て「人が独りでいるのはよくない」とおっしゃったのです。そうして、神は女のエバをお造りになったとあります。
これはただオスはメスを必要としているという生物学の問題ではありません。そうであるならば、他の動物にも同じように「一匹でいるのはよくいない」とおっしゃったはずです。
神がおっしゃった「独りでいるのはよくない」というのは、人間としての存在にかかわる問題です。つまり、人間は造られた当初から孤独であってはいけないのです。最初から助け合ったり支え合ったりして生きることを神はお望みになったのです。
孤独感というのは、「独りでいるのはよくない」と感じる、神から与えられた自然の感覚ということができると思います。
しかし、神がそのように人間をお造りになったにもかかわらず、人間は孤独になったり、孤独感を感じてつらい思いをしてしまうのはどうしてでしょうか。
それはまさに聖書がいう「罪」の問題が大きくかかわっているからです。罪とは神の御心に反する生き方です。そして、その神の御心とは、人が神と人とを愛して生きることです。この生き方に反して、自分本位に自分中心に生きようとし、ついには神の座に自分を据えようとする生き方が、罪人であるわたしたちの生き方なのです。そうした生き方が、人間を孤独にしていくのは当然の結果と言えます。
では、罪深い生き方を改めて、神の御心に従って生きるなら、再び孤独感を感じない生き方ができるようになるのでしょうか。
二つの問題があります。
一つは、わたし一人が生き方を変えたとしても、まわりが変わらなければ、神が望む人間関係を築くことはできません。孤独というのは独りの問題ではなく、二人以上の人間がかかわる問題だからです。
もっとも、生き方を変えた何人かが集まれば、その人たちの共同体の中では孤独を克服できるかもしれません。
もう一つの問題はもっと重大です。
そもそも、自分の力で罪深い生き方を変えることが、人間には可能なのだろうか、ということです。一日ぐらいなら何とかできるかもしれません。あるいは形だけなら一週間ぐらいできるかもしれません。
しかし、生き方を心の底から変えるということは、罪深い人間には不可能だというのが聖書の教えです。泥だらけの手をいくら擦り合わせてもきれいにならないのと同じです。
では、わたしたち人間はもはや孤独感を克服することができないというのでしょうか。そうではありません。神がお遣わしになったイエス・キリストだけがこの問題を解決することができるお方です。わたしたちにできないことを、イエス・キリストは成し遂げてくださったからです。
イエス・キリストは何よりも神がわたしたちを愛していてくださることを、その生き方と教えを通して示してくださいました。聖書はこのイエス・キリストによって示された神の愛から何ものもわたしたちを引き離すことはできないと語っています(ローマ8:38-39)。
まずはこのイエス・キリストによって示された神の愛にどっぷりとつかることが、孤独からの解放の第一歩ではないでしょうか。