2010年11月24日(水) 『アーメン』の使い方は? 山形県 Y・Wさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「集会の祈りの後に、信者はアーメンとよく唱えます。意味合いとして『本当に』『確かに』『その通り』等の意味があるようです。旧約聖書等を読んでみると、神の言葉に対する承認、同意、また神に対する感謝、神に対する礼拝をも意味するように思えました。
分かり切ったことですが、誰かが祈ってアーメンとわたしたちがとなえるのは人に対してでしょうか。神に対してでしょうか。だれかが神に祈ったり感謝したり、礼拝をささげたとき、わたしたちは、それを承認し同意して、まことの神に対してアーメンと唱えて、神に対して祈りをささげることになると思います。
アーメンの深い意味合い、使い方の注意点等を教えていただきたいと思い、お便りいたしました。よろしくお願いします。」
Y・Wさん、いつも番組を熱心に聴いてくださりありがとうございます。今回のご質問はクリスチャンならば誰でもが使っている「アーメン」という言葉についてですが、なんとなく分かったつもりで使っている言葉について、改めて考える機会を与えてくださり感謝です。
さて、「アーメン」という言葉はヘブライ語ですが、この言葉は「アーマン」という動詞からきています。この言葉は「信じる」「信頼する」などの意味があります。たとえば創世記15章6節の有名な言葉「アブラハムは主を信じた」という場合の「信じた」というのは、この「アーマン」という動詞が使われています。
また、この同じ動詞から、「エメトゥ」という名詞も生まれています。「エメトゥ」という言葉は「まこと」という意味ですが、例えば詩編117編2節に「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い」とあります。その場合の「まこと」という言葉が、この「エメトゥ」という言葉です。「真理」「真実」「まこと」などと訳されますが、いずれも「信頼に足るべきもの」という含みが共通してあります。
ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、「アーメン」という言葉のニュアンスを知るために、「アーメン」と同じグーループの単語にも触れてみました。
さて、旧約聖書の中でアーメンという言葉が使われるのは、のろいや祝福を自分の身に引き受ける同意の意味でのアーメンであったり、頌栄に対する応答としてのアーメンである場合がほとんどです。たとえば、申命記27章14節以下には、神の掟を破る者にくだる呪いについて、民は「アーメン」と言わなければならないと定められています。あるいは、詩編106編48節には「イスラエルの神、主をたたえよ 世々とこしえに。 民は皆、アーメンと答えよ。」と言われています。
旧約聖書のギリシア語訳である七十人訳聖書では、この「アーメン」という言葉をほとんどの場合「ゲノイト」(そうありますように)と願望形(希求法)で訳しています。ただし、アーメンは先ほども見たとおり「信頼する」という動詞や「まこと」という名詞とも関係していますから、単に「将来そうありますように」という希望ではなく、「まことにその通りである」という信頼の表明も含みとしてあることを見逃してはなりません。
旧約聖書でちょっと変わった使い方としては「アーメンの神」という表現がイザヤ書65章16節に出てきます。日本語では「まことの神」(新共同訳、新改訳)、「真実の神」(口語訳)などと訳されています。信頼するに足る誠実な神という意味で「まことの神」「真実の神」なのです。
さて、新約聖書でも、頌栄や祈りのあとに「アーメン」と唱えるのは、ユダヤ教からの伝統を引き継いでいます。しかし、イエス・キリストはそれまでの時代にない「アーメン」の使い方をしました。それは、ご自分が重要なことをおっしゃるときに「アーメン」あるいは「アーメン、アーメン」と二度繰り返してから、教えの言葉を述べたと言うことです。
たとえば、マルコによる福音書10章15節で「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とイエス・キリストはおっしゃっています。この「はっきり言っておく」と訳され言葉は「アーメン、あなたがたに言う」という言葉です。アーメンが二度繰り返される例はヨハネによる福音書に数多く出てきますが、たとえばヨハネ福音書6章47節は「アーメン、アーメン、あなたがたに言う」と述べてから「信じる者は永遠の命を得ている」と言葉が続きます。
ところで、旧約聖書イザヤ書65章16節には「アーメンの神」という言葉が出てきましたが、新約聖書黙示録3章14節には「アーメンである方」という表現が出てきます。
「ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。』」
この場合の「アーメンである方」とはイエス・キリストを指しています。そしてその直後に「誠実で真実な証人」と言われているとおり、その場合の「アーメン」は「誠実であり真実である」というニュアンスです。父なる神が「アーメンの神」であられるのと同じように、子なる神イエス・キリストも「アーメンである方」と呼ばれるにふさわしいお方です。
それと関連したことですが、パウロはコリントの信徒への手紙二の1章20節でこう述べています。
「神の約束は、ことごとくこの方において『然り』となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して『アーメン』と唱えます。」
「この方」というのは、言うまでもなくイエス・キリストのことです。神の約束がどれほどあるとしても、ことごとくイエス・キリストにおいて神の約束は「然り」となった、つまり神の約束はすべてイエス・キリストにあって真の意味で成就したということです。言い換えれば、イエス・キリストを通して神はご自身の誠実さ真実さを明らかに示されたのです。そういうわけで、まことに神の約束を成就してくださったイエスの名をとおして「然り」「まことに」「アーメン」とキリスト者は唱えるのです。
祈りを「アーメン」という言葉で結ぶのは、ユダヤ教からの伝統である、と先ほど言いましたが、キリスト教の祈りでは「イエス・キリストの御名によって、アーメン」と唱えます。キリスト者の「アーメン」は神の約束を成就してくださったイエス・キリストと深く結び付いています。その点が同じ「アーメン」という言葉で祈りを結ぶユダヤ教とキリスト教の理解の大きな違いです。
最後に、「アーメン」とはいったい誰に向かって唱える言葉なのか、このことについて考えてみたいと思います。特に複数の人々が集まって祈るときに、一人が祈り終わって他の者たちが「アーメン」と声をそろえて唱えるのは、いったい誰に向かってなのでしょうか。祈っている人に向かってでしょうか。それとも神に向かってでしょうか。
それは、その祈りが、誰に向かっての祈りなのか、ということを考えてみれば、答えはすぐにわかることだと思います。神に対しての祈りなのですから、当然「アーメン」も神に向かって述べる言葉です。しかし、神に向かっての言葉であれば、祈りの言葉も「アーメン」も無言でもよいはずです。なぜなら、神は心のうちの思いをご存知なのですから。けれども、集会での祈りの場合は、共同の祈りなのですから、人が聞いているということが前提です。そういう意味で、その祈りが共同体の祈りである証しとして、互いに聞こえるように「アーメン」と唱えるのは、人に向かってではありませんが、共に祈っている人たちのためであるというのも一面の真理であると思います。