2010年11月3日(水) クリスチャンでなくても善い人はいっぱいいる? ハンドルネーム・ぶどうさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ぶどうさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「前々から疑問に思っていたことですが、一般的にクリスチャンにはよい人たちが多いというのは、なんとなく分かります。しかし、クリスチャンでない人の中にも善い行いをする人や立派な業績を残す人たちがたくさんいるのも事実です。そうすると、善い行いというのは、神様がいてもいなくても関係のないことではないでしょうか。
変な質問ですが、よろしくお願いします。」
ぶどうさん、ご質問ありがとうございました。お便りを読ませていただいて、この疑問がでてくる背景はいったいどこにあるのだろう、と思いました。
どんな宗教でもそうだと思いますが、自分たちの信じていることは絶対に正しいという信念が宗教にはあるものです。自分たちの信じる宗教は間違いだらけだなどと言い始めたら、その宗教を信じていること自体が意味をなさなくなってしまいます。わたしは、キリスト教に限らず、どんな宗教であっても、自分たちの信じていることが真理であると思うことは、当然のことだと思っています。
しかし、自分の信じる神が絶対に正しいということと、自分が絶対に正しいということはまったく別の問題です。ところが熱心な信仰者ほど、だんだんこの区別ができなくなって、いつしか、自分が神の代弁者になったり、神の代理人としてふるまったりしてしまう誤りに陥りがちです。そういう人は物事を客観的に見ることができなくなって、独善的で一方的な考えに凝り固まってしまいがちです。
ぶどうさんのご質問の背景には、ひょっとしたら独善的な振舞いのクリスチャンが身近にいて、その言動に対して困惑した経験があるのではないかと推測いたしました。
あるいはまたこうも考えました。それは、キリスト教的な用語や考え方と、ぶどうさんが生きている世界の考え方や用語の使い方が、必ずしも同じではないために、話がどこかでかみ合わなくなってしまっているのではないか、ということです。
そもそも、ご質問の中に出てきた「善い行い」とか「立派な業績」というのは、どういうものを指しているのでしょうか。たとえば、満員電車の中でお年寄りや体の不自由な人に席を譲るというのは、一般的に善い行いであると認められていることです。あるいは、大きな災害で被災した人たちに援助の手を差し伸べることも、一般的に善い行いだと考えられています。そういう行いを「善い行い」と呼ぶのであれば、そのような行いはクリスチャンだけがしていることではありません。この世の人がだれでも普通にしていることです。もし、その事実を認めないクリスチャンがいるのだとすれば、それはよほどの偏屈な考えの人だと思います。
「立派な業績」ということに関しても、たとえば、人権を擁護するための活動で業績を上げた人たちは、クリスチャンでない人たちの中にも大勢いることは事実です。あるいは地域興しのために活躍して、目覚ましい業績を残した人は、この日本に限って言えば、むしろ圧倒的にクリスチャンでない人の方が多いでしょう。
もっとも、ここでいう「善い行い」も「立派な業績」も、その価値基準を判断するのはあくまでも人間です。先ほどの電車で席を譲る、というのはある人から見れば、善い行いというほどのものではなく、当たり前のことにしか過ぎないことかもしれません。あるいは人権擁護の活動は、国が変われば大きなお世話以外の何ものでもない、ただの内政干渉だということになってしまいます。ただ、それでも人間にとって普遍的な「善」とは何かを人間自身が考え、人間自身が判断するわけです。その場合、あくまでも人間が主体ですから、人間にとって最初から不可能なことは、たとえそれが素晴らしいことであったとしても、なすべき善い事には含めて考えません。逆にいえば、そういう人間的な意味での「善い行い」や「立派な業績」は人間であるならばできる可能性のあることですから、クリスチャンであるなしにかかわらず、それを成し遂げる人がどの世界にもいるというのは、当たり前のことなのです。
しかし、キリスト教が言う「善い行い」というのは、その基準が神にあります。もちろん、人間は神ではありませんから、神の御心を知ることはできません。ただ、神が聖書を通して啓示してくださったことを通してだけ、「善い行い」の基準を十分に知ることができるのです。
では、キリスト教の「善い行い」の基準は、先ほどの人間の基準と全然違ったものなのか、というと、必ずしもそうではありません。多くの部分は重なりあっています。たとえば、キリスト教では「隣人愛」はなすべき善い行いの基準です。その部分ではかなりの事柄がこの世の基準と重なるでしょう。
しかし、キリスト教の「善い行い」のもう一つの大切な基準に「神への愛」があります。そうなると、神を信じない人にとっては、神への愛を基準として行動の善悪の判断をすることが、そもそも不可能になってしまいます。いえ、クリスチャン以外の人にとっては、そういう基準を「善い行い」の基準に含めるという発想自体がないのだと思います。これでは、議論がかみ合うはずがありません。
今、百歩譲って、「隣人愛」という基準だけから「善い行い」について考えるとした場合、果たしてそれはクリスチャンにだけしかできないことでしょうか。そうではないでしょう。ある程度隣人愛を実践できる人もいれば、できない人もいます。見方を変えて言えば、ある人の行動を見て、その人がクリスチャンであるかないかを判断することはほとんど不可能だということです。
では、もう一つの質問についてはどうでしょうか。もう一つの質問というのは、クリスチャンでなくても善い行いを行うことができるならば、神がいてもいなくても関係のないことではないでしょうか、ということです。
これについては、前提が大きく違っていて、議論がかみ合わないように思います。もし、神がいないという前提に立てば、誰がどんな信念に基づいて行動をとろうとも、そして、その結果がたまたま人間的基準を満たす善い行いであったとしても、それは神の存在とは関係のない、という結論しか出しようがありません。神がいないという前提で考えるのですから、それを神の存在と結びつけて考えることが、前提に反することだからです。
しかし、神が存在するという前提で考えるとするなら、まったく別の考え方もできます。つまり、クリスチャンであってもそうでなくても、人間的な意味での善い行いができるのは、まさに、神がそのように人間を善へと導いているからだという考えです。どんな社会でも完全な悪だけの社会にならないのは、そこに見えない神の導きがあるからだとする考えです。
では、どっちにしても「善い行い」ができるなら、キリスト教など信じなくても同じなのでしょうか。それはさっきも言いましたが、「善い行い」とは何か、ということに関係してきます。キリスト教のいう「善い行い」を知り、それを実践しようとするならば、当然のことですが、キリスト教信仰に踏み入らなければ、それを知ることも実践することも不可能です。もちろん、形だけ真似することならば、可能かもしれませんが、心が伴わない行いが果たして「善い行い」と言えるでしょうか。