2010年10月20日(水) どっちが正しい翻訳ですか 神奈川県 A・Sさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのA・Sさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を楽しみに聴かせていただいております。
わたしは何年か前から、異なった翻訳の聖書を読み比べながら、御言葉を味わっています。今まで読み親しんできたのとは違った新鮮さで、改めて聖書の意味の深さを味わう恵みにあずからせていただいております。
ところが、先日読んだコリント人への第一の手紙7章を読んでいて、あまりの違いに驚いてしまいました。36節からはじまる段落です。
わたしが使っているのは新改訳聖書と新共同訳聖書なのですが、パウロはいったい誰のことを頭に置いてこの個所を書いているのでしょうか。また、どうしてこの二つの翻訳にこんなにも違いがでてきてしまったのでしょうか。それはときどき耳にする写本の違いによるものなのでしょうか。そのあたりのことをわたしにも分かるように説明していただければ幸いです。よろしくお願いします。」

A・Sさん、お便りありがとうございました。複数の翻訳聖書で御言葉を味わっていらっしゃるとのこと、素敵な時間の過ごし方だと思いました。きっと味わい深い聖書の言葉の再発見をたくさんされたことと思います。
前にも言ったことがあるかもしれませんが、聖書に限らず、翻訳という作業それ自体が、文章の解釈と深くかかわっています。ただ、横文字の単語を日本語に置き換えれば、それで翻訳が完成するというものではありません。
最近では自動で翻訳をしてくれる便利なサイトがあります。英語でも中国語でも、ほとんどの主要な国の言葉を日本語の文章に翻訳してくれるとても便利なサイトです。ところが、こういう翻訳ソフトを使った翻訳は、複雑な文章になると実におかしな日本語に翻訳してくれます。
そこが機械の悲しいところで、どの単語がどういう意味に使われているのか、前後の関係から推測するにも限度があります。その上、その単語がどこにどうかかっているのか複雑な文章になると、もう完全にお手上げになってしまうのです。
つまり、翻訳という作業は単なる機械的な作業ではなくて、そこに翻訳者の理解や解釈が重要なカギを握る緻密な作業なのです。

さて、ご質問に出てきたコリントの信徒への手紙一の7章36節以下のパウロの言葉を、どう理解して翻訳するかは、昔から二つの立場が知られていました。片方の翻訳しか読んだことがない、という方もいらっしゃると思いますので、今ここで二つの翻訳を読み比べてみたいと思います。注意していただきたい点は、パウロが念頭に置いているのは、これから結婚をしようとしている若い男性のことなのか、それとも、適齢期の娘を持った父親に対する言葉なのか、ということです。

まずは、新共同訳聖書の翻訳です

「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。」

続いて新改訳聖書です。

「処女である自分の娘の婚期も過ぎようとしていて、そのままでは、娘に対しての扱い方が正しくないと思い、またやむをえないことがあるならば、その人は、その心のままにしなさい。罪を犯すわけではありません。彼らに結婚させなさい。しかし、もし心のうちに堅く決意しており、ほかに強いられる事情もなく、また自分の思うとおりに行なうことのできる人が、処女である自分の娘をそのままにしておくのなら、そのことはりっぱです。ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしているのであり、また結婚させない人は、もっと良いことをしているのです。」

どうして、こんなにも違う翻訳になってきてしまったのか、翻訳のもとになっている写本がちがっているということではありません。まったく同じテキストを目の前に置きながら、全然違った翻訳になっているのです。

まずは文法的な事柄についてお話ししておきます。

その一番の大きな翻訳の違いとなって表れているのは何といっても「彼の娘」という言葉をどう理解して翻訳したかということです。この部分は、「ある人がその娘に対してふさわしいふるまいではないと感じるならば」という書きだしで始まっています。そこだけを読むならば、「彼の娘」とは「父親である彼の娘」という意味に理解するのがもっとも自然な読み方です。つまり、「ある人」とは娘の父親のことで、ここでのパウロの言葉は娘を持った父親に対する言葉だということです。

ところが次に出てくる「ヒュペラクモス」という形容詞との組み合わせで、別の理解も可能になってきます。「ヒュペラクモス」という言葉のもともとの意味は「アクメーを超えた」、つまり「頂点を超えている」とか「時期が過ぎている」とか「度を超えている」という意味です。この形容詞が修飾している単語が、「娘」なのか、それとも「ある人」のことなのか、文法的にはどちらにも取れるからです。
つまり、「ある人が、情熱が度を超えて強くなりすぎて、彼の婚約相手である娘に対して、ふさわしいふるまいではないと思っている」のか、それとも、「ある人が婚期を過ぎた自分の娘に対して、ふさわしいふるまいではないと思っている」のか、二通りの理解が可能になってしまうのです。

そうすると、「結婚させる」という単語の訳も、それに従って変わってきます。つまり、「彼らを結婚させなさい」と父親に勧めているのか、それとも、情熱が度を超えて強くなりすぎている彼に、「結婚しなさい」と勧めているのか、どちらの翻訳も可能になってくるからです。

文法的には二通りの翻訳が可能だとしても、これを書いたパウロは、どっちの意味でもいいとは思っていないはずです。正しい翻訳はどちらかでしかあり得ません。

では、いったいパウロが直面していた相手は娘を持った父親だったのでしょうか、それとも結婚しようと思う相手のいる独身男性だったのでしょうか。

これを決定するのは、当時の文化的な背景です。つまり、娘の結婚を決定する権限があるのは、父親なのか、それとも相手の男性なのか、という問題です。今日の法律では結婚は両性の合意の上にのみ成り立つものです。ですから、相手も合意するという前提であれば、結婚するかしないかは自分の決定で決まってしまいます。そういう感覚でこの個所を読めば、パウロはこの独身男性に対して、「結婚するもしないもあなた次第だ」と言っているようにも取れます。
しかし、この当時の結婚には娘の父親の権限が大きくかかわっていました。そういう背景でこの個所を読むとすれば、パウロが念頭においている相手は、娘の父親以外には考えられません。