2010年10月13日(水) 『キリストが言われた』とは? 愛知県 K・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は愛知県にお住まいのK・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生お久しぶりです。さっそくですが質問があります。
ヘブライ人への手紙10章を読んでいたのですが、5節〜7節にこう書いてあります。
キリストは世に来られたときに次のように言われたのです。「あなたは、いけにえや献げ物を望まず、むしろ、わたしのために体を備えてくださいました。あなたは、焼き尽くす献げ物や罪を贖うためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」
この「あなたは、…」の引用部分ですが、どうして、「キリストは言われた」のに、その引用聖書箇所が新約聖書のイエスの伝記(福音書)または使徒言行録ではなく旧約聖書からの詩篇40編7節〜9節なのでしょう。」
K・Kさん、お久しぶりにお便りありがとうございます。聖書を読んでいて、ふと思う疑問はたくさんあると思います。そういうちょっとした疑問を大切に考えることは、興味をもって聖書を読み進んでいくうえで、とても役に立つことだと思います。
今回のご質問はキリストがおっしゃった言葉に関するご質問です。取り上げてくださった個所はヘブライ人への手紙の10章で、特にこの部分は、キリストの犠牲の一回性と完全性とを扱った有名な個所です。旧約聖書の動物犠牲が本体そのものではなく、やがて来るべきキリストの犠牲を指し示した影にすぎないという議論です。実体であるキリストの犠牲の完全さが表れた時には、もはや律法の定めた動物犠牲は、本体であるキリストの贖いの犠牲を指し示す役割を果たして不要なものになったのです。
さて、今回のご質問は、その神学的な議論についてではなく、そこに記されているキリストがおっしゃったという言葉についてです。そこにキリストの言葉としてカギカッコで記されている部分は、旧約聖書からの引用とは明記されてはいませんが、明らかに詩編の40編からの引用と思われます。ただし、細かな点を見ていくと、ヘブライ語の原典と若干違った部分があります。では、ギリシア語訳旧約聖書である七十人訳からの引用かというと、それとも違う部分があります。細かな違いは無視するとして、大筋では詩編40編からの引用と考えてよさそうです。
そうすると、ヘブライ人への手紙の作者は、なぜこの言葉を「キリストは言われた」として、記しているのでしょうか。
もちろん、キリストがおっしゃった言葉が、偶然か意図的かはわかりませんが、詩編の言葉と一致していた、という可能性はゼロではありません。そうであるとすれば、ヘブライ人への手紙の筆者は、伝承によって知っていたキリストの言葉を自分の議論を証明するものとして、ここに引用したということになります。
けれども、ご質問にある通り、なぜ福音書や使徒言行録からイエス・キリストの言葉を引用しなかったのでしょうか。答えは至って簡単だと思います。一つは、ヘブライ人への手紙の作者が、四つの福音書や使徒言行録の写本を一つも持っていなかった可能性があるということです。確かにヘブライ人への手紙が書かれたのは60年前後のことだと考えられていますから、その時にはひょっとしたらマルコによる福音書ぐらいはすでに書かれていたかもしれません。しかし、そうだとしても、ヘブライ人への手紙の著者がその福音書の写本をすでに手にしていた可能性は低いと思われます。
福音書や使徒言行録からイエス・キリストの言葉を引用しなかったと考えられる二つ目の理由は、福音書や使徒言行録の写本を持っていて、自由にそこからキリストの言葉を引用できたと仮定してのことですが、では、どの言葉を引用したらもっともふさわしい引用になったでしょうか。結局、ヘブライ人への手紙の作者は、適当なキリストの言葉をそこに見出すことができなかったということでしょう。
もっとも、ここで引用されている言葉が、詩編40編の言葉であることを、ヘブライ人への手紙の作者が知っていて引用してる可能性もあると思います。むしろ、その可能性は非常に高いように思います。
その場合、二通りのことが考えられます。一つは、イエス・キリストご自身が詩編40編を引用して、ご自分の使命についてお語りになったことがある、という可能性です。
たとえば、荒野の誘惑の記事の中で、イエス・キリストはサタンを退けて「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」とおっしゃっています(マタイ4:4)。確かにそれはキリストの言葉に間違いありませんが、内容は申命記8章3節からの引用です。その場合、「『人はパンだけで生きるものではない』とキリストがおっしゃった」という言い方をしてもあながち間違いであるとは言えません。
それと同じように、イエス・キリストご自身が詩編40編を引用して説教されたという伝承をヘブライ人への手紙の作者が知っていたとすれば、それをキリストの言葉として引用したとしても、まったく不思議なことではありません。
しかし、それよりももっと可能性が高いのは、この詩編40編の言葉をキリストの言葉と理解したのは、ヘブライ人への手紙の著者自身であったという可能性です。
この詩編には「そこで、わたしは言いました」という言葉が記されています。その「わたし」は「聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために」「わたしは来ました」と述べる人物です。
その場合、この「御心を行うわたし」とは誰のことを言っているのか、ということが問題になります。もちろん、詩編の作者以外の誰でもないことは分かり切ったことですが、ヘブライ人への手紙の著者は、イエス・キリストの十字架に、その究極の成就を見たということでしょう。そういう意味で、ヘブライ人への手紙の作者は、この詩編をメシアに関する詩編と理解して、「わたしは来ました」という「わたし」をキリストの言葉として引用したのでしょう。
もっとも、詩編40編の言葉をそのように理解する考え方が、ヘブライ人への手紙の著者のオリジナルな聖書理解なのか、それとも初代教会の中ですでにそのようにこの詩編が理解されてきたのかは、定かではありません。
そして、そうした初代教会の人々の旧約聖書理解がどの程度直接イエス・キリストご自身の旧約聖書理解にさかのぼることができるのか、そのことも確定できる十分な証拠があるわけではありません。
こういう言い方をしてしまうと、誤解を与えてしまうかもしれません。詩編40編をキリスト論的に理解する仕方が、ヘブライ人への手紙が最初であったのか、それともそれ以前からあったのか、あるいはさかのぼってイエス・キリストご自身の教えの中にすでにあったのか、あえてどれであるかを明らかにするだけの十分な議論を今はここですることはできないということです。
ただいずれにしても、ヘブライ人の手紙の著者が詩編40編のいう神の御心を行うために来た「わたし」をイエス・キリストと理解していたことだけは間違いのない事実です。