2010年9月29日(水) 創世記3:15はキリスト預言ですか? 兵庫県 Y・Kさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのY・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生に質問させていただきたく、メールいたしました。
創世記3章15節のことですが、この個所は『原福音』と呼ばれ、そこで言われている女の子孫とはイエス・キリストのことを指していると言われています。
しかし、そう言われたエバは、イエス・キリストのことが約束されているのだ、と理解できたでしょうか。い意地の悪い言い方かもしれませんが、それは後世の人々の読みこんだ解釈ではないでしょうか。
その辺りのことを教えていただけたらと思います。」
Y・Kさん、メールありがとうございました。創世記には他にも謎めいた言葉がいくつありますが、ご指摘のあった3章15節も謎に満ちた言葉の一つではないかと思います。さっそくこの個所についてご一緒に考えてみたいと思います。
まず初めに、創世記3章15節の言葉を知らないという方のために、簡単に前後の文脈についてお話ししておきたいと思います。
創世記3章は、人類の始祖であるアダムとエバの堕落とエデンの園からの追放を記した有名な個所です。蛇の誘惑によって、決して取って食べてはいけないと神から命じられた善悪の知識の木から食べてしまう、神の命令に背いた人間の姿がそこに描かれています。
このとき蛇に向かって言われた神の言葉が、きょうご質問に出てきた創世記3章15節の言葉です。それは、こういう内容の言葉です。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く。 彼はお前の頭を砕き お前は彼のかかとを砕く。」
ご質問の中にも出てきたとおり、この個所は古くから「原福音」(proto-evangelium)、あるいは最初の福音と呼ばれてきました。「原福音」をあらわすギリシア語の「プロート・エウアンゲリオン」あるいはラテン語のプロト・エヴァンゲリウムという言葉を、誰が最初にこの個所を呼ぶ用語として使ったのかは知りませんが、この創世記3章15節を救い主キリストを約束したものであると解釈した最初の人は、二世紀に活躍した殉教者ユスティノスや、同じく二世紀に活躍した教父イレナエウスであると言われています。
さて、ご質問は、この神の言葉を、果たしてエバは、イエス・キリストのことが約束されている言葉だ、と理解できただろうか、ということです。
結論から先に言えば、エバがこの言葉を救い主イエス・キリストを約束した言葉とは理解しなかっただろうということです。というのも、「イエス」という固有名詞も、「油注がれた者=キリスト」という一般名詞も、この時まだアダムにもエバにも知られていなかったからです。
もちろん、神ご自身は、ご自分の御旨の中で、イエス・キリストをお遣わしになって、サタンである蛇に致命的な打撃を与えるという御計画を立てていらっしゃったことでしょう。けれども、創世記3章15節の言葉の中にその御計画を明らかにされているとは思われません。ここに記されていること以上のことも、それ以下のことも、エバはここから知り得るはずはなかっただろうと思います。
では、エバはこの蛇に向かって語られた神の言葉から何を聴きとったのかといえば、それは誘惑者である蛇と女との間に、子子孫孫に至るまで敵意が置かれるということ、そして、女の子孫が誘惑者である蛇本人の頭を砕くということです。この場合、不思議にも女の末と蛇の末との対決ではなく、女の末と誘惑した蛇自身との対決で女の子孫が蛇自身の頭を砕くということなのです。
当然、女の子孫が誰のことを指すのだろう、という疑問はエバにもあったかもしれません。特定の人物のことなのか、それとも、誰とは特定できない女の子孫たちのことを語っているのか、その答えはエバにも分からなかったはずです。もちろん、エバがここには記されていない特別な答えを神からいただいていたというのなら別ですが、そう考えるのは聖書の正しい読み方とはいえません。その場に居合せた人なら誰もが理解するのと同じことをエバも理解し、またその場に居合わせた人なら誰でも理解できそうもないことは、エバも理解できなかったと考えるのが常識的な聖書の読み方ではないかと思います。
では、この個所を最初の福音と理解することは、読み込みなのでしょうか。少なくとも、神が将来の御計画として、女の子孫を通して誘惑者である蛇に致命的な一撃を加えるということを明らかにされた、という意味では確かに最初の福音であると言うことができると思います。その意味では決して読み込みではありません。
しかし、この個所が、後にマリアから生まれるイエス・キリストのことを語っているのか、と言えば、神がこの言葉をおっしゃったこの時点で、イエス・キリストのことがはっきり聴く者に伝わっているとは、どこをどう読んでも読めません。そういう意味では、この個所がイエス・キリストによるサタンへの勝利を預言したものであると断定してしまうことは、読み込みであると言わざるを得ません。
ただ、誤解のないように言いますが、新約聖書の光に照らして考えるなら、創世記3章15節に語られている蛇の頭を砕く女の子孫が、イエス・キリストのことを指していることは明らかであるように思います。ただイエス・キリストだけがサタンの力を打ち破るお方であることは、新約聖書が一致して証言しているところだからです。
このように、最初はおぼろげに語られた神の約束が、歴史と共に明らかになっていくことを、「啓示の進展」と読んでいます。聖書はこの神から明らかにされる啓示の進展に沿って読むことが大切です。
神は最初に救いの計画をお語りになるときに、女の子孫が誰であるのかを、あえて明らかになさいませんでした。しかし、ともあれ、女の身から生まれる子孫の誰かが、蛇の頭を砕くという大きな業を成し遂げるという希望を約束されているのです。
人類に子供が与えられるたびに、もしかしたら、この子が救いを与える約束の子かもしれない、という希望を抱くことができるように神はしてくださったのです。
確かに、この蛇への言葉に続いて、神はエバに対して「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。 お前は、苦しんで子を産む」とおっしゃいました。そのような苦しみは決して快いものではありません。しかし、神は苦しみの宣告に先だって、この出産という業がもたらす希望について先に語っていらっしゃるのです。
時代が下って、神はこの「女の子孫」が誰をさしているのか、だんだんと明らかにされてきます。神はアダムとエバの子孫からノアを生まれさせ、ノアの子孫からアブラハムを生まれさせ、アブラハムの子孫からユダ部族を選んでダビデ王を起こされます。ダビデ王朝が衰退するに及んでも、なお、このダビデの子孫からまことの王であり牧者となるべきものを遣わすと約束されます。
このようにして、啓示されるべき内容が徐々に明らかになって、あの時神がおっしゃっていた「女の子孫」がイエス・キリストのことを指していたのだ、ということが分かるようにしてくださったのです。
ですから、聖書を読むうえで大切なことは、まずは、その言葉が語られたその当時、聴く人はそれを耳にして何を理解したか、ということが一つ。そして、そればかりではなく、その語られた神の言葉は、その後の神の啓示の言葉によって、どのように内容が豊かにされ明らかにされていくのか、その歴史をたどることが、二番目に大切なことです。そして、その両方の作業を通して、正しく神の言葉の意味を理解することができるのです。