2010年9月15日(水) キリストの言葉を宿らせるとは? 千葉県 S・Y
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は千葉県にお住まいのS・Yさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、番組をいつも興味深く聴かせてもらっています。
さて、早速ですが、わたしの質問にお答えいただければと思い、筆をとりました。
先日、コロサイの信徒への手紙を読んでいましたら、『キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい』(3:16)という個所に出会いました。もちろん、この個所を読むのは初めてではありませんが、その時、ふと、この言葉の意味が心に引っかかりました。
今までは単純に、聖書を一生懸命読んで、御言葉をたくさん心に蓄えるという意味に理解していました。けれども、その日に限って、果たしてそういう理解でよいのかと、心によぎるものがあったのです。
この場合、パウロはここでどういうことが言いたかったのでしょうか、この聖書の言葉の意味を解説してください。よろしくお願いします。」
S・Yさん、お便りありがとうございました。日ごろ何も感じずに読み過ごしている言葉でも、ある時ふと気になってしまうことは、めったにないことかもしれません。しかし、そういう時にこそ、もう一度その言葉の意味を考え直してみるのは、とても役に立つような気がいたします。もちろん、その個所の意味を改めて知ると言う意味でもそうですが、同じようなことは他の個所にも応用がきく事だと思います。
当たり前だと思っていた読み方に、いつも注意を払うことは、聖書をもっと深く知り、もっと興味をもって読むために、とても役立つことだと思います。
さて、早速ですが、S・Yさんが疑問に思った個所を見てみることにしましょう。
まず、問題の個所、コロサイの信徒への手紙3章16節ですが、大きな流れからいうと、3章12節から述べられる、身に着けるべきものについての一連の勧めの言葉につづく場所に置かれています。そして、そのことはさらに直前の9節10節で述べられている、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」こととつながっています。
つまり、新しい人を身に着けるということが意味する、具体的な生き方が12節以下に述べられていると言ってよいと思います。パウロは身に着けるべきものとして「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の五つを挙げています。そして、続く13節で具体的な行動として、主イエス・キリストの赦しに倣って、互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合うことを勧めています。そうすることによって「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の五つを具体的に身に着けるようにということでしょう。14節は「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい」という勧めですから、12節で挙げた五つに加えて、「愛」を取り上げているわけです。しかも、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」に並んだ一つとして六番目に「愛」を加えているのではなく、五つを結び合わせる絆として「愛」を加えなさいということです。
この12節から14節までが一つの文をなしていて、新しい人として「身に着けるべきもの」を語っています。
続く15節は新しい独立した文がまた始まります。
「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」
この15節は、12節以下で述べられた「新しい人として身に着けるべきもの」というテーマとは独立した勧めであるとも考えられますが、その一貫であるとも考えることができます。
文の初めが「カイ」というギリシア語で始まっていますが、それは英語でいえば「and」に当たる言葉です。「そして」という意味にとれば、12節から続けて、身に着けるべきものという流れの中で、キリストの平和がクリスチャンの共同体を支配することの重要性を語っていると考えることができます、しかし、新共同訳聖書が訳しているように「また」という意味に理解すれば、12節の「身に着けるべきもの」とは区別されたものと考えることができます。
同じように、きょうのご質問の個所である16節も、文としては、12節からも15節からも独立していますから、新しい要素の勧めと理解することもできます。しかし、一連の流れの中では、いずれにしても新しい人としての生き方にかかわる勧めと位置づけることができるのではないかと思います。
さて、その勧めの言葉は「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」というものですが、少なくとも三つの事柄について考える必要があると思います。
まず、「キリストの言葉」とは何を指しているのか、ということです。ご質問では、それは「聖書の言葉」と言い換えて良いのか、という問題と絡んでいます。
もう一つの問題は「あなたがたの内に」というのは「一人一人の心のうちに」という個人の問題なのか、それとも「教会の中に」という共同体の問題なのかということです。
そして、三番目は「豊かに宿らせる」とはどういう意味かということです。それは、ご質問の中にあったように一生懸命聖書を研究して聖書の言葉を蓄えるということでしょうか。
まず、第一の点ですが、「キリストの言葉」という言い方は、新約聖書の中では非常に珍しい表現です。ギリシア語では「ロゴス・トゥー・クリストゥー」と言いますが、その通りの言い方が出てくるのは、このコロサイ3章16節しかありません。ローマの信徒への手紙10章17節に出てくる「キリストの言葉」という表現は別の言い方です。しかし、その場合も同じ意味だとしても、新約聖書全体で「キリストの言葉」という言い方は二回しか出てきません。
「神の言葉」という表現がたくさん出てくるのに対して、あえて「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」と語っているのですから、この個所を単純に「神の言葉」や「聖書」と言い換えてしまってはいけないように思います。
では、「キリストの言葉」とは何かということを理解することは、二回しか出てこない用例で検証することはできませんが、3章11節からの流れの中で、「キリストがすべて」「主にある赦し」「キリストの平和」と並んで、「キリストの言葉」という表現を使ったのではないかと思われます。
通常は「神の言葉」というべきところを、特に「キリストにかかわる神の言葉」あるいは「キリストというお方によってその意味が明らかにされた神の言葉」という意味をこめているのではないかと思います。ただ単に「キリストが語った言葉」という意味ではないでしょう。
さて、二番目の問題は時間の関係で割愛することにして、最後に三番目の点を取り上げたいと思います。
「豊かに宿らす」の意味はひとつながりの16節後半と合わせて理解すべきであると思います。つまり、キリストの言葉を豊かに宿らせることは「知恵を尽くして互いに教え、諭し合う」ことによって実現するという理解です。ここはややこしい文法的な問題が絡んでいますが、エフェソの信徒への手紙5章19節と同じことを言っているのだと思われます。それは「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合う」ということとつながっています。
不思議な表現ですが、詩編と賛歌と霊的な歌によって、互いに教え合い、諭し合うという、そのことがキリストの言葉を豊かに宿らせることにつながっているのです。