2010年9月8日(水) 律法からの解放か束縛か? T・Hさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はT・Hさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、お元気でしょうか?いつも私の質問に答えてくださって有難うございます。ところで7月14日のチャボさんのご質問で、隣人愛と赦しについて解説して頂きましたが、私がそれを聞いて思ったことは、そのような隣人愛を実行することが律法の全てを守ることよりさらに困難な事ではないか?という事です。イエス様が来臨したことが律法からの解放だということですが、イエス様の要求された事が律法よりもさらに困難な事だとすれば矛盾をきたしているように思うのですがいかがなものでしょうか?」

T・Hさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。また、番組の内容についてフィードバックしていただけることを大変ありがたく思います。
T・Hさんが取り上げてくださった7月14日の番組も、もとをただせば4月28日放送のtadaさんのご質問に関するものでした。こうして、リスナーの皆さんがいろいろな角度から話題を発展させて下さることを頼もしく感じます。

さて、繰り返しになりますが、チャボさんのご質問はマタイ福音書の5章44節に記される「自分の敵を愛しなさい」という隣人愛の中に「敵を赦す」ということも含まれているのではないか、ということでした。
それに対するわたしの答えは、その場合の「ゆるす」とはどういう意味なのか、ということをお話いたしました。
もし、「ゆるす」ということが罪となる行為を許可したり是認したりするという意味であるとすれば、そのような「ゆるし」は隣人愛の中に含まれないということでした。なぜなら、罪を犯すがままに放置することは、隣人愛に矛盾するからです。
逆にローマの信徒への手紙12章19節にあるように、自分で復讐しないで、むしろ敵に対して、飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる、という積極的な態度で接するという意味での「ゆるし」であるなら、それは当然、隣人愛に含まれるものだということです。
さらに、その場合に、相手が永遠の救いに至ることを心から願うことであるという意味であるとすれば、それもまた当然「隣人愛」の中に含まれていると結論しました。

さて、T・Hさんが疑問を感じられた個所はこの最後の二点です。
T・Hさんは、少し大げさな表現で、「そのような隣人愛を実行することが律法の全てを守ることよりさらに困難な事ではないか」、とその疑問をおっしゃっています。もちろん、そのような隣人愛の要求が、律法の精神をはるかに超えたものであるかどうか、ということがT・Hさんの知りたいことの中心ではないと思います。
もしそうだとすれば、答えは簡単です。イエス・キリストの律法理解は、字義通りの表面的なものではなく、律法の精神に立ち返ってその要求するところが何か、ということを考えているからです。その意味で、イエス・キリストが要求する律法の義は、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるものである、とイエス・キリストご自身がおっしゃっている通りです(マタイ5:20)。しかし、これこそが、本来の律法が要求するところですから、律法の全てを守ることよりさらに困難な隣人愛というものは論理的にあり得ないはずです。イエス・キリストにとって、律法は守っているが、隣人愛をまっとうすることはできない、という状態はあり得ないのです。イエス・キリストにとって隣人愛を全うできないことは、律法のすべてを守っていないのに等しいのです。

しかし、H・Tさんの疑問点はその点にあるのではなく、むしろ、次の点にあるのではないかと思います。つまり、イエス・キリストは一方では律法からの解放者でありながら、他方では、なお律法の要求を徹底して求められるのは、矛盾しているのではないか、という点です。

さて、このことを説明するためには、言葉を厳密に使う必要があるように思います。一口に「律法」といっても、新約聖書がその言葉を使うときに、必ずしも同じ意味でそれを使っているわけではありません。少なくとも犠牲や儀式についての規則を扱う儀式律法と十戒などに代表される道徳的律法とは区別されるべきです。それに加えて、社会的なルールを定めた掟もモーセの律法の中にはあります。それらをすべてひっくるめて律法と呼んでいますが、そのすべてからキリストはわたしたちを解放したというわけではありません。
確かに儀式律法に関して言えば、ヘブライ人への手紙10章が語っているとおり、この「律法」は「やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実態はありません」(ヘブライ10:1)。ですから本体であるキリストが罪の贖いの業を完成された以上、「罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」(ヘブライ10:18)。その意味で新約時代に生きるわたしたちクリスチャンはこの儀式律法から完全に解き放たれています(コロサイ2:16-23をも参照)。

しかし、道徳律法についてはどうでしょうか。確かにパウロの手紙を読んでいると、「律法からの解放」という表現が出てきます。たとえば、ローマの信徒への手紙7章6節に「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」とあります。

この場合の「律法」が意味しているのは、前後の文脈から道徳律法のことであるのは間違いありません。問題は、そこで言われている「解放」の意味です。パウロは「自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」という言い方をしています。「自分を縛っていた」というのは、律法によって罪が明らかになり、その罪のゆえに死を報いられていた、という意味で、律法はわたしたちを束縛しているのです。そういう意味での律法の束縛から、キリストは信じるわたしたちを解放してくださっています。
そのことは同じパウロが書いたガラテヤの信徒への手紙3章13節の言葉でいえば「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」ということにほかなりません。

しかし、この意味での「律法の束縛から解放されている」、あるいは「律法の呪いから贖いだされている」ということは、神の御心である律法を行う義務そのものから解放されたということではありません。

確かにわたしたちは、義とされるために律法を全うすることはできません。しかし、キリストを信じる信仰によって義とされた者が、神の御心である律法に生きることそのものを放棄してもよいと語っているわけではありません。むしろ、義とされた今は、いっそう神の御心に従って生きることが求められているのです。それは救われるためにではなく、救われたことへの感謝として神の御旨に生きるという姿勢が求められているのです。

パウロはローマの信徒への手紙6章11節以下でこう語っています。

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。」

このことを完全に実行できるか、ということよりも、救われた者としてこの方向へ向かって歩んでいるかどうか、そのことをいつも自己吟味することが大切なのではないでしょうか(フィリピ3:12-14参照)