2010年9月1日(水) 心が貧しいとは? 山形県 Y・Wさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「いつも放送ありがとうございます。先日はわたしの質問を取り上げていただき感謝いたします。
さて、マタイ5章3節で『心の貧しい者は幸いです天の御国はその人たちのものだから』と日本語で訳されていますが、『心の貧しい者』は別訳で『霊の貧しい者』とも訳せる、とある本に記されていました。
心と霊ではかなり違いがあるように思います。具体的にギリシア語の意味するところの『心の貧しい者(人々)』どはどういうことなのでしょうか。またなぜ幸いなのでしょうか」

Y・Wさん、お便りありがとうございました。今回も聖書に直接かかわる、とても興味深いご質問です。
ご質問の中に出てきたマタイによる福音書5章3節ですが、日本の教会の中で使われてきた代表的な翻訳聖書では、どれも「心の貧しい」という訳語が使われています。文語訳聖書でも口語訳でも新共同訳でも、またY・Wさんが使っていらっしゃる新改訳聖書でも「心の貧しい」という言葉が使われていて、日本ではここをそのように翻訳するのがほぼ定着しているかのようです。
他方、外国語の翻訳聖書を読むと、「心」よりも「霊」という言葉で翻訳しているものが圧倒的に多くあります。今、手元にある英語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、ラテン語の翻訳聖書50種類ほどをざっと調べてみましたが、「心」という言葉を使っているのはたったひとつ、フランス語のエキュメニカル訳の聖書だけでした。

では、ギリシア語で書かれたもともとの言葉はどういう単語が使われているのでしょうか。それは「プネウマ」と言う言葉です。
「プネウマ」という言葉はもともとは空気の動きを意味する言葉でした。つまり「風」や「息」を意味する言葉でした。たとえば、ヨハネによる福音書3:8で「風は思いのままに吹く。…霊から生まれた者も皆そのとおりである」というときの「風」も「霊」もどちらも同じ「プネウマ」という言葉が使われています。新約聖書の中でこの言葉が使われるときには、たいてい日本語訳では「霊」という言葉が使われています。

では、この「プネウマ」というギリシア語が、日本語訳聖書の中で、「心」と訳される個所はほかにないのかというと、そうではありません。新共同訳聖書でざっと調べてみましたが、379個所の用例のう今日の個所も含めて16回、「心」という訳語があてられています。もちろん、それらの場合すべて、「心」という訳語がふさわしいのかどうか、個々に検討してみる必要はあると思います。

たとえば、マタイ26章41節(マルコ14:38も)には、ゲツセマノネ園で居眠りしてしまう弟子たちを見てイエス・キリストが「心は燃えても、肉体は弱い」とおっしゃる場面が出てきます。その場合、弱いのは弟子たちの「心」なのか「霊」なのかどちらがふさわしい訳でしょう。見解が分かれるところだと思います。

いずれにしても、「プネウマ」というギリシア語は日本語に翻訳されるときに「心」と訳した方が意味が通りやすい場合があるということは確かだと思います。ですから、マタイ5章3節の「心の貧しい」という翻訳が必ずしも不自然な翻訳であるとは言えないように思います。

もっとも、イエス・キリストがお語りになったのは、ギリシア語ではなく、アラム語であっただろうと一般的に考えられています。ではマタイ5章3節をイエス・キリストがアラム語でなんとおっしゃったのかというと、それはもはや推測の域の問題でしかありません。しかし、ギリシア語訳の旧約聖書である七十人訳聖書の中で、「プネウマ」という単語がヘブライ語のなんという単語の訳語であるかということはすぐに調べることができます。七十人訳聖書では圧倒的にヘブライ語の「息」や「風」や「霊」を意味する「ルアーク」という単語の訳語として用いられています。そして、「心」を意味するヘブライ語の「レーブ」あるいは「レバーブ」の訳語としては決して用いられることはありません。つまり、七十人訳聖書を翻訳した人たちの中ではヘブライ語の「レーブ」と「ルアーク」は意味がはっきりと区別されているということです。

さて、ながながと話してきましたが、では一体、イエス・キリストのおっしゃった「心の貧しい人々」あるいは「霊の貧しい人々」とは、どういうことなのでしょうか。その意味を知りたくて「プネウマ」というギリシア語の単語の意味や由来を長々と話してきたわけですが、ここでもうひとつ大切なことを指摘しておく必要があります。

実はマタイ福音書5章3節の「心の貧しい人々」は、ルカ福音書6章20節では単に「貧しい人々」となっています。この場合、ルカ福音書は文字通りの「経済的に貧しい人々」のことを言い、マタイ福音書では文字通りの意味ではない「貧しい人々」のことを言っていると理解することもできます。
しかし、そうではなく、イエス・キリストが語った言葉を、人々にわかりやすく理解させるためにマタイ福音書は「心の」という言葉を補って翻訳したとも考えることができます。

そこで、旧約聖書の中で「貧しい人々」という言葉が、どういう使われ方をしてきているのか、その点を調べてみる必要があります。マタイやルカが使っている「貧しい人」を表す言葉は「プトーコス」というギリシア語です。この単語はギリシア語訳の旧約聖書である七十人訳聖書の中に42回出てきますが、そのうちの25回が詩編の中に出てきます。そして、そのほとんどは「アーニー」というヘブライ語の訳語として出てきます。
このヘブライ語の「アーニー」という言葉のもともとの意味は「虐げられる」「苦しめられる」という言葉に由来しています。虐げられ苦しめられた結果の貧しさです。それが元来の意味です。

この言葉が詩編の中でどのように使われているかを見てみると、二つの特徴がすぐに理解できます。一つはこの単語は「神に逆らう者」に対立する言葉であるということです。たとえば、詩編10編2節では「貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて その策略に陥ろうとしている」とあります。あるいは詩編82編4節では「弱い人、貧しい人を救い 神に逆らう者の手から助け出せ」とあります。いずれも「貧しい人」と「神に逆らう人」は対照的な人間像として描かれています。

もうひとつの特徴は、「貧しい人」は「神を畏れる人」「主を尋ね求める人」「神の慈しみに生きる人」と一つのグループになって登場するということです。たとえば、詩編22編27節では「貧しい人は食べて満ち足り 主を尋ね求める人は主を賛美します。」とあります。あるいは詩編149編4節5節には「主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 伏していても喜びの声をあげる。」とあります。いずれも、「貧しい人」とは「主を尋ね求める人」であり「主の慈しみに生きる人」であるということです。いいかえれば、神を畏れ敬うまことの信仰者ということができるでしょう。神に逆らう者たちから虐げられていくうちに、ただ、神だけが自分の頼れるところと信じる人々のことということができると思います

イエス・キリストがおっしゃる「貧しい人々」というのも、おそらくこの詩編の流れと同じ意味での「貧しい人」なのではないかと思われます。ただ経済的に乏しいというのではなく、心が神を必要としていると言ってもよいでしょう。あるいは霊的な慰めと励ましを神に求めている人と言い換えてもよいかもしれません。

最後に、なぜ貧しい人々は幸いなのでしょうか。答えはそれに続く言葉にある通り、神の国は彼らのものだからです。