2010年8月11日(水) 福音を聞くチャンスのなかった人は? 福岡 A・Mさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は福岡県にお住まいのA・Mさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生に質問があります。キリスト教ではキリストの福音を受け入れた人は救われると聞きました。逆に福音を拒んだ人は救いから漏れてしまうとも聞いています。しかし、現実にはキリスト教と出会うチャンスのないまま生涯を終える人がいます。たとえば、日本ではザビエルがキリスト教を伝える以前の時代の人々や、その後のキリスト教禁令の時代に生きた人々など、キリストの福音を聞くチャンスがありませんでした。こういう人たちは皆救われないと言うことができるのでしょうか。
素朴な気持ちですが、それではあまりにも気の毒な気がします。この点について、先生はどうお考えですか。よろしくお願いします。」
A・Mさん、お便りありがとうございました。いただいたご質問は、もっともよく尋ねられるキリスト教についての疑問の一つではないかと思います。この番組でも過去に同じような疑問を扱ったことがあったように思います。ただ、ここ何年か同じような問題を取り上げたことがありませんので。気持ちを新たにしてご質問にお答えしたいと思います。
そもそも、この疑問に接するたびに思うことですが、いったいこの疑問が問いかけていることは何なのだろうということです。こんな簡単な質問を前に「何なのだろう」というのは失礼かもしれません。確かに、質問の内容は読んでその通りです。「キリスト教の福音を聞く機会のなかった者は、救われることがないのか」…その一言に尽きます。そのことは理解できます。
しかし、この質問に接するたびに思うことは、この疑問を抱く根本の理由がどこにあるのだろうか、ということです。
単なる知的好奇心や素朴な疑問、と言ってしまえばそれまでですが、しかし、この疑問の背景にあるものは決して知的好奇心ではないように思います。少なくともわたしには、この疑問を投げかけて来る人たちには、二通りのタイプがあるように感じています。
まず、一つのタイプは、自分がキリスト教を信じないことを正当化するために、この疑問をぶつけてくるということです。
このタイプの人たちに答えて、「キリスト教の福音を聞く機会のなかった者は、決して救われることはありません」と答えたとすれば、彼らの反応はわかりきっています。きっとその人たちはキリスト教の無慈悲さを指摘して、その様な宗教は信じるに値しない、と一喝することでしょう。
しかし、逆に、「キリスト教の福音を聞く機会のなかった者にも、神は救いのチャンスを備えておられるのです」と答えたとすれば、即座に彼らはこう答えるでしょう。「それならば、今福音を聞く必要はないし、将来必要と思った時に聞けば済むことではないか。たとえそんなチャンスが来なくても、神はそういう人のためにも救いを用意しておられるのだからそれで十分だ」
残念ですが、このタイプの人たちにとっては、答えはどうでもよいことなのです。どっちの答えにしても自分がキリスト教を信じない理由を正当化できればそれで十分だからです。
むしろこのタイプの人たちとは、人間にとって救いの必要性があるのかないのか、そのことから論じた方がよほど有益なのではないかと思います。そもそも救いの必要性を感じていない人が、救いについて真剣に考えることなどあり得ないからです。
ボタンをかけ違えたままでは、お互いにとって何も有益なことは出てこないように思います。
さて、もう一つのタイプですが、おそらくA・Mさんもこちらのタイプの質問者だと思っています。
それは、福音を聞くチャンスを持たなかった人に対する純粋な関心から疑問を抱くタイプの人です。特に自分の身近な人が、福音を聞くことのないままに亡くなってしまったような場合です。
質問者はすでにキリスト教信仰を持っている人の場合もありますし、また、その疑問が解決できないのでキリスト教に入信することを戸惑っているという人もあります。
自分の身近な人や愛する人が、福音を聞かないまま世を去ってしまったら、どうなってしまうのだろう、という気持ちに対して、深い共感を覚えることは言うまでもありません。そして、たとえ「キリスト教の福音を聞く機会のなかった者は、決して救われることはありません」ということがキリスト教の真理であったとしても、このタイプの人たちにそれをどう語るべきなのかは、また別の問題のような気がします。
確かに人間的な同情心からキリスト教の真理を曲げて伝えることは許されることではありません。しかし、そのことで心が揺らぎ、つまずきそうになっている人に対して、わざわざその気持ちを逆なでするような答えをストレートに投げ返すことが、その人のためになるとも思えないのです。
奥歯にものの挟まったような、あいまいなお答えで返ってイライラさせてしまっているかもしれません。わたしがA・Mさんの状況を個人的に知っていれば、もう少し的を射た答えを返すことができたかもしれませんが、今はここまでお答えするのがやっとのことです。
ただ、どちらのタイプの人に対しても、はっきりさせておきたいことは、自分の救いの必要性についての真剣な思いと、その救いを自分自身が確実に手に入れているという確信がないままで、果たして福音を受け入れるチャンスがなかった人は救われるのだろうか、と他人のことを心配することに、どれほどの意味があるのだろうか、ということです。まずは自分の救いについて、もっと真剣に、もっと貪欲に考えてほしいということです。そのことが解決されないままで、他人についての心配もないのではないかと思います。
最後に一か所だけ聖書を引用したいと思います。ローマの信徒への手紙の中にこう言う言葉があります。2章16節です。
「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」
ローマの信徒への手紙1章18節から、パウロは人間の罪について徹底的に描いています。それは神を知りうる状態にありながら神を神として認めない人間の罪の問題です。パウロはこの人間の罪は、律法を持っているユダヤ人も律法を持たない異邦人も変わるところがないと述べています。異邦人は書かれた律法を持っていないことで弁明の余地があるというわけではありません。
先ほど引用したパウロの言葉は、その一連の流れの最後に置かれた言葉です。最後の審判の時に、わたしたちにどのような弁明の余地が残されているか、いないのか、すべてが明らかになるのです。明らかになるとは、納得のいかない判決を神はなさならないということです。それほど明らかなのです。福音を聞くチャンスがあった者も、なかった者も納得できる裁きです。納得できるその時に答えを知ることで十分ではないでしょうか。
今、わたしに言えることはそれだけのことです。