2010年8月4日(水) 公認本文こそ正しいのですか? ハンドルネーム・困ったさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・困ったさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「先日ある人から、こんなことを聞きました。それは今日本やアメリカなど、ほとんどの国で出版されている翻訳聖書のもとになっている聖書の原本は、間違った理論によって校訂されたテキストに基づいているので、多くの大切な真理を失ってしまっていると言うのです。
その人の話によると、現代の聖書本文の復元の作業は、ウェストコットとホートという二人の聖書学者の論理に基づいているということで、すべての間違いはこの二人の理論にあるというのです。
では、正しい聖書の本文がどこにあるかというと、ウェストコットとホートという二人の聖書学者が間違った理論を展開するまで長年教会で読まれてきた公認本文と呼ばれる聖書こそが、正しい内容を伝えるものだそうです。それは英語の欽定訳聖書のもとにもなっているのだそうです。
わたし自身はそう言われても判断できませんが、もしこれが本当なら、ゆゆしき問題です。
その人の話によれば、ウェストコットとホートという二人の聖書学者は『写本は数よりも質である』という論理のもとに年代的に古い写本であるバチカン写本とシナイ写本に大きく依存し、数的には圧倒的に多い公認本文の型に属する写本を退けてしまったというのです。
それに対して、写本は古ければ必ずしも正しい本文を伝えているとはいえないし、写本の数が多いのは、正しい本文だからこそ多くの人が書き写したのだと、その人は反論しています。
さらに、近代聖書本文学は、聖書本文は人間の手によって復元されなければ正しい本文を手にすることはできないという前提に立っているので、その学問自体が不信仰だとも言っています。神は聖書の本文が誤ることなく伝わることを願っているはずであるし、実際そうする力があるお方なので、たくさんの写本が残っている公認本文こそ神が意図した正しい聖書本文だというのです。
山下先生はこのことについてどう思われますか。ご意見をお聞かせください。」
困ったさん、お便りありがとうございました。大変ややこしい話で、ラジオを聴いてくださっている方には、一度聞いただけではわけがわからない話だったかもしれません。
簡単に言ってしまえば、現代のほとんどの翻訳聖書が翻訳のもとにしている校訂本と、英語の欽定訳のもとになっている公認本文と、どちらがオリジナルの聖書に近いかという話だと思います。
ご存じのようにわたしたちが手にしている聖書というのは、最初に書かれたオリジナルの本文ではありません。残念なことにそれは今ではすっかりなくなってしまいました。残っているのはすべて写本といわれる、書き写された聖書だけです。しかも、その数ある写本も、写本同士比べてみると、どこか違っている個所が互いにあるということです。
ここまでは事実ですから、その事実を受け入れるしかありません。
問題は、それでは、写本からどうやってオリジナルの聖書を復元するのか、ということです。そういう論理や法則を定めて本文を復元する作業を「聖書本文学」と呼んでいます。ご質問に出てきたウェストコットとホートという学者は、この聖書本文学の基礎を築いた人々に名前を連ねる有名な学者です。
さて、この場合、論理的にはどの写本もオリジナルの本文をそのまま伝えているものではない、ということも考えられますが、逆に、たくさんある写本のうちどれか一つだけがただしいという答えも可能性としては否定できません。ただ、数多くの写本があると言っても、いくつかのタイプに写本が分類されうるものであることは、今日の聖書本文学の共通した認識です。その分類というのは、それぞれの写本がどういう家系に属するかという分類でもあります。つまり、オリジナルのテキストが書き写されていく中で、どういうグループが出来上がったか、という問題です。たとえば、マルコによる福音書のオリジナルテキストを書き写す時に、最初二人の人が書き写したとします。二人とも一字一句間違いなく書き写せば問題はありませんが、その段階でどちらかが間違って書き写したとします。仮に正しい方をA、間違った方をBとします。その後、その間違ったBの写本が百冊書き写されたとしても、写本のグループとしては二つしか存在しません。その後、AとBの写本を読み比べた人が、新たにCという写本を作り出すかもしれません。そうすると、タイプとしてA、B、Cという三つのグループの写本が生まれてしまいます。
もちろん、これは可能性としてお話しているにすぎません。聖書本文学では実際に写本にある違いを分類して、大きなグループに分けて、どういう伝達の経路をたどって今日手にしている写本が生まれたのかという仮説を立てます。
なぜ、そのことが大切かというと、そういうグループ分けをしないで、単純に数の多いものだけが正しいと言ってしまうと、先ほどあげた例のように、間違ったものがたくさん書き写されてしまうと、それが数の上で多いために正しい本文とされてしまう危険があるからです。
しかし、写本をグループに分けただけでは、どちらの読み方が正しいかは、それ自体からはわかりません。そこで、いくつかの原則を考えます。単純に考えればより古い写本の方がオリジナルに近いと考えられます。それを外的な証拠と呼んでいます。
しかし、単純に外的な証拠だけでどちらが正しいかを決めてしまうのは危険ですから、間違った本文が生じる原因を推理します。つまり、Aという写本にある読み方をオリジナルな本文と仮定した場合、Bの写本はなぜ違うのか、その合理的な説明ができるかどうか、逆の場合はどうか、ということを考えます。間違いが生じる理由にはいくつかの法則がありますので、そうした法則を考えながら、より正しい本文と思われるものを復元していくのです。
細かいことはここではすべて取り上げられませんが、お便りの中に出てきた点に関してだけ、取り上げておきたいと思います。
まず現代の聖書校訂本が、公認本文と比べて多くの真理を失っているかどうかという点ですが、はたしてキリスト教の教理が現代の聖書校訂本を採用することで成り立たなくなってしまったと言える個所は具体的にどこがあるでしょうか。証拠成句として採用していた個所が、現代の聖書校訂本からはなくなってしまっている個所は確かにありますが、しかし、他の聖書個所から同じ教理を組み立てることができますから、多くの真理を失っているとは言えないでしょう。
次に「写本は数ではなく質である」とする点に関して、先ほども述べました通り、写本の違いがどういう経路で広まっていくかということを考えた場合、数の多さが正しさを証明するものではないということはお分かりいただけたのではないかと思います。
そして写本の数の多さや古さよりも大切なのは、その間違った読み方がなぜ生まれたのか、その説明が合理的にできるかどうか、その方がさらに大切です。
正しい読み方だからたくさんの人たちが書き写し、たくさんの写本が生まれたというのは、一見もっともらしい意見ですが、その場合の「正しい読みかた」というのは、その写本を書き写した人にとっての正しい読み方だということを忘れてはなりません。人間というのは自分に一番都合のよいものを伝えようとする弱い存在です。数が多いということが必ずしもオリジナルのテキストに近いかどうかを決めるしるしにはならないということです。