2010年7月21日(水) パウロにとって『ローマ市民権』は『ちりあくた』ではないのですか? 兵庫県 S・Fさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は兵庫県にお住まいのS・Fさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「大阪の近くに住む42歳の者です。中三のクリスマスに同級生であった牧師の息子に導かれて教会の門をくぐって以来25年以上、洗礼を受けてからでも20年以上になるのですが、それでも、というかそれゆえに、というか長く教会生活を続けて聖書を何度も読めば読むほど、そして多様な角度からのメッセージを聞けば聞くほど、聖書の中には頻繁に語られながらもその詳細については読みすごされている箇所が多いと気づきました。こういった箇所の公平で矛盾のない読み解き方について、礼拝でその箇所からメッセージが語られた直後など、ことあるごとに何度も教会員やあるいは伝道集会で知り合った他教会の信徒や牧師に尋ね回っても『みんな聖書にすべて精通しているわけではない』『誰だって限りある知識の範囲内で信仰生活を送っている』といった『至極当然の答え』が返ってくることが多く、こういうときこそ自分自身の信仰が試されていると思い、つたない聖書知識でこれらの箇所の真の意味を理解しようと必死になって、その結果他の教会員に迷惑をかけることもしばしばであったと思い起こされます。
パウロは自らを『ベニヤミンの別れの者』とか『八日目の割礼』とか『律法については非の打ち所のない者』と自己紹介した上で、イエス様に出会ってからは『これら一切のものをちりあくた』と言い切っていますね。
その一方で、同じく“生まれながらに持っていた優越的な地位”であるローマ市民権だけは、パウロにとっても『ちりあくた』にはならなかったのでしょうか? あるいは宣教のためならば世俗の権利も積極的に利用すべきというメッセージなのでしょうか? 聖書は登場人物の罪や弱さも余すところなく書き出しているとの信仰に立てば、ユダヤ社会での高い地位や評価を捨ててしまったパウロも世俗の権利の誘惑には勝てなかったということでしょうか? あるいは、神の律法とローマの法に基づく市民権を峻別するパウロの社会的態度に学ぶものは今のクリスチャンにこそ多いと見るべきなのでしょうか?」
S・Fさん、お便りありがとうございました。お便りに中にもありましたが、「聖書の中には頻繁に語られながらもその詳細については読みすごされている箇所が多い」と感じるのは「長く教会生活を続けて聖書を何度も読めば読むほど、そして多様な角度からのメッセージを聞けば聞くほど」そうだというのにはとても共感を覚えます。そして、そういう発見について分かち合おうとするときに、意外にもクリスチャン仲間から敬遠されてしまうという経験もわかるような気がします。発見した本人には重大な事柄であっても、他の人にとってはその発見の意味するところが分からなくて、些細な問題を大げさに考えすぎているとしか思えないからでしょう。
さて、今回のご質問ですが、答えはそんなに難しくないように思います。
まず、ご質問の中にでてきたフィリピの信徒への手紙3章を丁寧に読んでみたいと思います。
3章2節から手紙の調子が急に変わることはよく知られている通りです。「あの犬どもに注意しなさい」とあるように、パウロはここから福音に敵対するある種の人々を念頭に、フィリピの教会の人々に注意を呼び掛けています。その先を読み進めると、「あの犬ども」と呼ばれている人々が、どういう人たちであるのかがもう少し明らかになってきます。その人たちは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」だと呼ばれます。
それに対して、パウロは自分たちクリスチャンを「わたしたちこそ真の割礼を受けた者」と呼んで、「キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」自分たちと敵対者とを区別しています。
もちろん、パウロが自分たちは「肉に頼らない」と言ってのは、「肉に頼るものがそもそもない」からではありません。3章4節以下で「だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです」と記して、ユダヤ人としてのパウロの誇りをひと通り語ります。そして、それらを列挙した上で、それらを塵あくたと見なし、自分たちこそ神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない、真の割礼を受けた者だということを明らかにします。
そこで問題なのは、ここでパウロが語っている「肉に頼る」とか「肉に頼らない」といっていることの意味です。前後関係から想像すると、敵対者の教える救いはどうやら「肉に割礼があること」が救いの条件であるようです。キリストを信じるというだけでは足りず、ユダヤ人のように割礼を身に帯びることが救いにとって必要と教えていたのでしょう。
したがってパウロがここで、塵あくたとみなしているのは、キリストに加えて、あるいはキリストに替えて、自分を救いに入れる条件と見なされるような肉の誇りすべてです。
つまり、パウロは救いにとってそれらのものがいかなる意味も持たないということを述べているのです。
では、それと同じ次元の議論の中で、パウロは自分がローマ市民権を持っていることを誇りとし、それを頼みとして救いに入れられることを主張したことがあったでしょうか。パウロは一度たりとも自分がローマの市民権を持っているから神の国に入る資格を得ているのだ、などと主張したことはありません。
そういう意味では、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」という「一切」の中には「ローマの市民権」も含まれていることは言うまでもありません。割礼を受けていることが救いの条件でないのと同じで、ローマ市民権を持っていることは救いの条件とはならないからです。富も名誉も学歴も、それが救いの条件とはならないという点では、やはり塵あくたにすぎません。
では、パウロが自分のローマ市民権について主張するのは、どういう場合でしょうか。新約聖書の中には二度、パウロが自分がローマ市民であることを主張したことが記されています。使徒言行録の16章37節と22章25節です。いずれもローマの官憲がパウロを裁判にかけもせずに処罰しようとする場面で、パウロは自分がローマの市民権を持つものであることを主張しています。
しかし、どちらの場合も救いの条件としてローマの市民権を主張しているのではなく、ただ単に法の遵守をローマ帝国の官憲に求めているにすぎません。
当たり前のことですが、クリスチャンであるわたしは同時に日本国民としての義務と権利があります。しかし、日本の法律を守ったから自分は救われるわけではありません。また逆に日本国民でなくなったときに救いも失ってしまうわけではありません。そういう意味で、救いにとっては日本国民であることは塵あくたにすぎません。しかし、だからと言って、クリスチャンになったら日本国民としての義務も権利も放棄できるのだとは誰も思わないのは当然のことではないでしょうか。