2010年7月7日(水) ヨハネ6章21節について 山形県 Y・Wさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は山形県にお住まいのY・Wさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「最近、ヨハネによる福音書を読んでいて疑問に思ったところがあります。ヨハネによる福音書6章16節から21節までの記事で、イエス・キリストが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づかれ、恐れている弟子たちに対して『わたしだ。恐れることはない』と言われました。弟子たちはイエスを舟に迎え入れようとした、と記されています。そして、間もなく舟は目指す地に着いたと締めくくっています。イエス様は舟に乗り移ることなく、船だけ目的地に着いたのでしょうか。
共観福音書には、イエス様は舟に乗り移ったように記されているようです。それともこれは内面的に大切なことを教えようとして、ヨハネは記したのでしょうか、どうか教えていただければと思います。」

Y・Wさん、お便りありがとうございました。とても細かい点にまで注意を払いながら聖書を読んでいらっしゃるようすが目に浮かぶようです。

ところで、聖書の読み方には二通りあるように思いますが、一つはおおざっぱに全体の流れを把握する読み方です。まず聖書全体を読んで全体の流れを理解し、それからそれぞれの書物全体の流れを理解するという読み方です。この読み方の良い点は、あとで一つ一つの聖書の言葉を理解するときに、バランスの取れた読み方ができるということです。しかし、この読み方の短所は、先を急ぐあまり細かい点にまで注意を払わないという欠点があることです。しかし、そういう欠点はあるものの、一度は聖書全体の流れを理解しておくという意味では、初めて聖書に触れる人にはぜひお勧めしたい方法です。

もう一つの読み方は、先ほどの読み方を踏まえたうえでの読み方ですが、聖書の一字一句に細心の注意を払いながら読み進める方法です。この方法の良い点は、言うまでもなく、先ほどの読み方では読み飛ばしてしまいそうな小さな、しかし大切な言葉づかいや表現の違いを発見できるということです。Y・Wさんはまさに今、そういう丁寧な聖書の読み方をしていらっしゃるのだと思いました。
しかし、初めて聖書を手にする人には、この細かく聖書を読む方法は、返って肝心なことを読み飛ばして、些細な自分のこだわりを聖書に読みこんでしまうという欠点があります。その危険は初めて聖書を手にする人ばかりではなく、長年聖書に親しんできた人にも起こりうる事柄です。そうであればこそ、Y・Wさんは発見したわずかな表現の違いに、重大な意味があるのか、それともそこに拘泥してしまうことにそれほどの意味がないのかをお尋ねなのだと思います。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、きょうのご質問に出てくる、湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に近づかれるイエス・キリストの様子を描いた話は、四つある福音書のうち、ルカによる福音書を除いた他の三つの福音書にしるされた話です。話の細かな点では、Y・Wさんが指摘している点以外にも、それぞれの福音書の記す記事には特徴があります。ただ、三つの福音書が記す出来事は、それぞれ違う出来事を描いているというよりは、同じ事件を扱っているという印象を持つほどに、特徴的な共通点があります。そして、なによりも、五千人の人々に食べ物を与えた奇跡に続く出来事として、この事件を描いている点では、マタイ、マルコ、ヨハネの福音書は共通した理解を持っています。

では、Y・Wさんがご指摘してくださった点には、何かヨハネ福音書が語ろうとしている特別な意味があってのことなのでしょうか。なるほど、新共同訳聖書の翻訳だけを読むと、ヨハネによる福音書だけが、舟にイエスを乗せないまま目的地に着いてしまったような印象を受けます。

では、その同じ個所を新改訳聖書はどう翻訳しているのでしょうか。新改訳聖書は、「それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的地に着いた」と翻訳しています。つまり、イエス・キリストはちゃんと舟に乗りこんでいることになります。

もし興味をお持ちであれば、日本語訳聖書だけではなく、片っぱしから他の国の翻訳聖書にも目を通してみてください。そうすればすぐに気がつくと思いますが、新共同訳のような理解も、新改訳のような理解もあるということです。つまり、問題となっている文には二つの翻訳が可能なのです。実は翻訳者がその個所と続く文とのつながりをどう理解したかということによって、翻訳の結果が左右されているということなのです。

では、ヨハネ福音書が書かれた言語であるギリシア語聖書ではどうなっているか、というと、その部分は「彼らは〜することを欲した」という言い方です。ただ、「欲した」という部分が、ギリシア語の厳密な文法から言うと「行為がまだ完了していないで継続している」ニュアンスを伝える「未完了形」という時制が使われています。あえて文法に沿って訳せば、「彼らはイエスを舟に迎えようとしていた」ということになるのだと思います。
もっとも、この「未完了形」という時制が表すニュアンスは必ずしも、その行為が完了しないまま終わったということを意味するわけではありません。ですから、イエス・キリストを舟に乗せようとした弟子たちの思いが実現したのかしなかったのかは、ここを読んだだけでは確実な結論を出すことができないということです。ここを読んでわかることは、とにかく弟子たちはイエス・キリストを舟に迎えようと思っていたという事実だけです。

そして、次の文…「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という文とのつながりを、どう理解するのかは翻訳者がこの場面をどうイメージしたかということにかかっているということです。

さて、最後に余談になりますが、もしこの記事を記したヨハネ福音書が他の福音書にないメッセージを伝えているとしたら、別の部分にあるように思います。それは「わたしだ」とおっしゃるイエス・キリストの言葉の言葉です。もちろん、この言葉はマルコによる福音書にも出てきますが、ヨハネ福音書では、イエス・キリストが弟子たちに向かって言われた第一声がこの「わたしだ」という言葉です。
この言葉は、ギリシア語で「エゴー・エイミ」という言葉ですが、このことばこそ、主なる神が出エジプト記3章14節でご自分をモーセに紹介するときに使った言葉「わたしはある」というヘブライ語のギリシア語訳です。
もちろん、それだけではただのこじつけになってしまいます。しかし、ヨハネ福音書8章24節や28節の「わたしはある」(エゴー・エイミ)とおっしゃるイエス・キリストの言葉と合わせて考えるとするなら、イエス・キリストはご自分こそが主なる神であるということを、示しているのかもしれません。少なくともヨハネ福音書は湖の上を歩くイエス・キリストの姿に「わたしはある」と宣言される主なる神の姿を見出したのかもしれないということです。もちろん、これもヨハネ福音書に出てくる「エゴー・エイミ」という言葉をめぐる解釈の問題ですが、そういう読み方もあるのだということを頭の片隅にでも留めて、きょうの問題の個所を読んでみてはどうでしょうか。