2010年6月23日(水) 現代社会における『ぶどう園の労働者のたとえ』の意義は? ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「ある長老派の教会でアメリカ人牧師さんとお話をしました。その牧師さんは、イスラム問題に触れて、『タリバンが麻薬を世界中で売りさばいており、犯罪を引き起こしている。』と言われました。
一方、私の考えはこうです。『イスラムの国々は貧しく、農業にも適さない荒れた国土に暮らしており、生活の糧を得るために、一番手短に収入を得ることができる麻薬を栽培して売っている。それは、確かに犯罪や病魔の温床になる可能性はあるが、生きるために仕方なくそうしている側面が大きい。』
西側先進諸国は、イスラムの国々から豊富な原油などの地下資源を得て、自分たちの暮らしを豊かにするために、イスラムの国々をいわば“搾取”しているのだと思います。
ところで、こういう問題についてイエス様は、マタイ福音書の20章で『ぶどう園の労働者のたとえ』で、朝に来た労働者にも夕方に来た労働者にも、同じ1デナリオンを支払う話をされています。現代では、国によって労働者の賃金単価は大きな開きがあります。アメリカや日本では1日で何百ドルもの収入を得るのが普通なのに、東南アジアやイスラムの国々では、1日1ドルもないのが実態です。マタイ福音書のぶどう園の労働者のたとえで記されていることは、一体現代社会の中でどういう意味を持っているのでしょうか。」
tadaさん、お便りありがとうございました。お便りを読ませていただいて、いただいたご質問をどのように取り扱ったらよいのか、正直のところとても困惑しています。その困惑の理由は、tadaさんのご質問の意図がどこにあるのか、わたし自身が十分に理解できていないところから出てきたものです。
マタイによる福音書の20章1節以下に記された「ぶどう園の労働者のたとえ話」は「天の国は次のようにたとえられる」という出だしで始まっています。「天の国」というのは「神の国」の言い換えで、意味の上では「天の国」も「神の国」もまったく同じ意味です。
したがって「ぶどう園の労働者たとえ話」はイエス・キリストがお語りになった一連の「神の国のたとえ話」に属するものと考えることができます。
その場合、二つの点に注意が必要です。一つは「たとえ話」の性質そのものからくる事柄です。たとえ話というのは、物事の真理を伝えるために、何かにそれを例えて話す話法です。通常、たとえ話の中に出てくる人物や事柄のすべてに隠された秘密の意味があるわけではありません。寓喩的な・アレゴリカルな解釈をたとえ話の中に読み込んでしまうと、たとえをもって語ろうとしている真理そのものを見失ってしまいます。
もう一つの注意点は、そのたとえ話の聴き手が誰であるのか、言い換えれば、聴き手に何を理解させようとしているのか、ということです。イエス・キリストが神の国のたとえ話を語る意図は、多くの場合、その当時の人々が思い描いていた「神の国」についての誤った考えを正すためです。したがって、イエス・キリストのたとえ話を理解するには、当時何が問題であったのかという観点から読み進めることが大切です。現代的な関心を最初に持ちだしてしまうと、イエス・キリストが語ろうとしていないことを読みこんでしまう危険があるからです。
以上の事柄を念頭において、この「ぶどう園の労働者のたとえ」が語ろうとしている事柄がなんであるかを考えてみると、それは「神の恵み深さ」の一語に尽きます。最後にわずかな時間しか働かなかった者にも一日の必要な賃金を満額でお与えになる神の恵み深さです。当然このたとえ話は神の国のたとえ話ですから、この場合の一デナリオンの報酬が意味しているものは、神の国への入国ということができるでしょう。
もちろん、「恵み」と「報酬」とは意味の上から考えるとまったく別の事柄です。「恵み」は価なしに与えられるものであり、「報酬」は対価として与えられるものです。
もし、神の国の救いを対価なしでお与え下さる神の恵み深さをたとえで語ろうとすれば、ぶどう園での労働と報酬の関係でそれを表現するのは無理があると言わざるを得ません。しかし、あえてぶどう園での労働を持ちだしたのには、このたとえ話をお語りになった背景があるからです。その背景はたとえ話に出てくる次の発言に最もよくあらわれています。つまり、最初から働いている労働者は不平を述べてこう言ったのでした。
「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」
これはイエス・キリストと対立するファリサイ派の人々や律法学者がいかにも言いそうな台詞です。イエス・キリストは徴税人や娼婦など、当時罪人と考えられていた人たちを受け入れて、これらの人たちも神の国への入国資格があると教えていたからです(マタイ21:31)
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の国への入国は律法を守ったことへの報酬と考えていました。その意味では、このたとえ話に出てくる最初から働いた人たちは、正当な報酬を受け取ったのです。彼らの報酬が減らされたり、受け取れなくなったわけではありません。
しかし、それにも関らず、徴税人や娼婦を神の国の救いから排除しようとしているところに、彼らの問題点があるのです。神に一番近いと自負している彼らが、神の恵み深さを一番理解していなかったのです。神は救いに必要なものを恵みによってお与えになる方なのです。
さて、このたとえ話が現代社会の中でどういう意味を持つのか、と問われるならば、救いにおける神の恵み深さは今も変わることがない、ということでしょう。つまり、福音の真理は現代においても変わるところはないのです。
しかし、tadaさんからいただいたお便りから察すると、そのような答えを期待しているのではないようにも感じました。つまり、イエス・キリストがこのたとえ話をお語りになった本来の意図から離れて、現代社会のもつ経済的な貧富の格差に対して、このたとえ話が何かを示唆しているとすれば、それは何か、そのことをお尋ねになっているのだと理解いたしました。
あるいは、この「ぶどう園の労働者のたとえ話」の理解に関して、tadaさんとわたしの理解は根本的に違っているのかもしれないとも思いました。つまり、イエス・キリストが語る神の国は、現実の世界で経済格差がなくなることを目指すものであるとtadaさんが理解していらっしゃるのでしょうか。そうであれば、このたとえ話に出てくる賃金の支払い方は、この世の中の経済格差をなくすよい見本であるようにも見えるかもしれません。
ただ、わたし自身は、経済格差の解消は神の国の完成の結果であって、目的ではないと考えています。経済格差をなくしたところで神の国は実現しませんし、まして、すべての労働者に同一賃金を支払ったとしても、現実には経済格差はなくならないでしょう。家族の構成や住んでいる地域、またその人にとっての必要によって必要な額は異なるからです。理想的には、その人の必要が満たされるだけのものをそれぞれに受け取ることができるのであれば、経済的格差で苦しむ人はいなくなるに違いありません。ただ、ちょっと考えただけでも、それは実現できないことだというのは理解できます。
結局のところ、経済の格差から来る不公平は、国の政策である程度の対策を立て、その行き届かないところを善意の人々に委ねるしかないということだと思います。あるいはその逆で、まずは個人が努力をし、それで補えない部分を家族や親族が支え、その足りない部分を善意の人々や団体が支え、さらに足りない部分を国が補うということになるのだと思います。
国家間の経済格差という問題になると、もはやわたしの貧弱な頭では解決の筋道が立ちません。せいぜい漠然と思いつくのは国際的な協力関係や支援の体制を国家間で作っていくということぐらいです。