2010年6月16日(水) わたしは他人に不愉快な存在? 宮城県 Sundayさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は宮城県にお住まいのSundayさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生、こんにちは。私は親や職場の上司から『表情が硬い』『神経質』『動きが鈍い』と指摘されます。小さい頃から指摘され続けてきました。自分でも直そうと意識して行動しているのですが、他人から見れば直っていないのです。私は他人に不快感を与える存在なのかと悲しくなり、数日涙がとまりませんでした。
どのように祈ればよいのか、わからなくなってしまいました。先生、どうか祈りを教えて下さい。」
Sundayさん、お便りありがとうございました。お便りを読ませていただいて、何だか私までも悲しい気持ちになってしまいました。
実を言うと、わたし自身、学生時代、一緒に周りにいる人たちを緊張させてしまうタイプの人間でした。今も無口ですが、その頃はもっと無口で、無口なだけならまだ良いのですが、何か言うとなると一言一言が辛辣だったり、突拍子もないことを言いだしたり、そんな人間でした。おまけに、どちらかというと、いつも物事を深刻そうに考えている顔つきでしたから、きっと一緒にいた人は息苦しかったと思います。相手のその雰囲気が伝わってくると、余計にこっちも身構えてしまって悪循環だったのを思い出します。
もっとも、その当時の友だちに自分がどんな人間だったか尋ねてみれば、私に対する評価がまったく逆の人もいるかもしれません。
考えてもみれば、人が人に対して抱いている印象というのは、印象を抱いているその人の性格も一人一人が違うのですから、受け手によって印象が180度も違うということもあるのだろうと思います。
もっとも「表情が硬い」「神経質」「動きが鈍い」というのは、印象ではなくて客観的な事実だと言われてしまうかもしれません。見る人によって違うのではなく、誰が見てもそうだ、とおっしゃるかもしれません。しかし、そう思い込んでしまうところに悪循環の始まりがあるように思います。
例えば、「表情が硬い」というのは誰に対しても硬いのでしょうか。全然表情がないという人でない限り、たいていは相手によって表情は変わるものです。心を許せる相手であれば、自然となごんだ顔になるでしょうし、油断も隙もない相手なら緊張したこわばった顔になるでしょう。しかし、これとても、それを受け取る側の人間があなたをどう思っているかで、その表情の受け取り方も変わってくるはずです。
「神経質」にしろ「動きが鈍い」にしろ、比べる相手や求められている基準の高さ、またそれを受け取る人の性格によってどうにでもも評価が変わってくるものです。
何が言いたいのかというと、あまり他人の評価にとらわれてしまうと、自分らしさを失ってしまうということです。自分の能力や本来の自分であることを超えて何かを求められても、いきなりそれに応じることはできないのは当然のことです。
そのことを気にし始めれば、余計に表情は硬くなり、つまらない所にまで神経が回って神経質になり、なすべきことがなかなかはかどらなくなってしまうのは当たり前の反応だと思うのです。
もちろん、お面をかぶったようにいつも表情が固定しているとか、何時も手を洗っていないと気が済まないくらい神経質だとか、何も手につかなくて仕事がはかどらないとか、そういう症状のことをおっしゃってるのでしたら、話は全然別です。そこまで深刻なことでしたら、どう祈るべきか、という問題よりも、できるだけ早くカウンセリングを受けるなり、精神科のお医者さんに診てもらうことをお勧めします。
ところで、「表情が硬い」「神経質」「動きが鈍い」と他人から指摘されて、Sundayさんご自身はどう受け止められたのでしょうか。そこのところがとても気になりました。いただいたお便りには「私は他人に不快感を与える存在なのかと悲しくなり、数日涙がとまりませんでした」とありました。
わたしはSundayさんの様子やまわりの人たちのことを客観的に見たわけではありませんから、断定的なことは何も言うことができません。しかし、Sundayさんのまわりの人たちがSundayさんの存在に不快感を感じて、いろいろと指摘しているとは思えません。
ただ、言い方や指摘の仕方に問題があったのではないかと推測しています。愛を感じることができない忠告ほど人を不安にさせるものはありません。自分が感じた印象をただ無責任に相手に告げるだけでは愛のある忠告ではありません。少なくとも自分の存在がまわりの人にとって不快だと思われているような印象を与えてしまう忠告の仕方には問題を感じます。
さらに言えば、目的達成のためのにSundayさんに適切なアドバイスがあればなお良かったのだと思います。問題点だけを指摘して、それを克服するためのアドバイスがなければ、それは言わない方がましだと思ってしまいます。
もっとも、今更そんなことを言っても始まりませんから、今からでもできることは何か、御一緒に考えてみたいと思います。
その一つは、「表情が硬い」「神経質」「動きが鈍い」ということを、自分の性格として肯定的に受け入れるということです。せっかくの忠告に対して申し訳ないとは思わないで、誰から何と言われようとも、これが私であるということを、堂々と肯定してよいのだと思います。
それには、次のように自分に問いかけてみると良いと思います。「神様は表情が硬い私を不快に思っていらっしゃるでしょうか」「神様は神経質な私を不快に思っていらっしゃるでしょうか」「神様は動きが鈍い私を不快に思っていらっしゃるでしょうか」。すべてをご存知の神様はそのようなことで不快感を表されるようなお方ではありません。いえ、すべてをご存知なのですから、その人の存在を理解できなくて受け入れられないということはありません。
そういう神様を信じる時に、自分自身に対して少しでも肯定的になれるのではないでしょうか。
もう一つは、一旦自分自身に対して肯定的な気持ちになれた上での話ですが、それでも変えたいと思う欠点や性格は誰にでもあるものだと思います。しかし、どんなに精神的に強い人間でも、いきなり自分を変えることはできません。まして、自分を理解してくれない人たちの集団の中で自分を変えることは、よほど強靭な精神力をもった人でなければ無理に近いものがあります。
では、どうしたらよいのでしょうか。愛をもって自分の存在を受け入れてくれる許容量のある人たちの中で、自分自身を向上させていくほかはないと思うのです。
Sundayさんは教会に行っていらっしゃるのでお気づきだと思いますが、教会は自分を向上させていくのにもっともよい場所だと私は思っています。もちろん、教会に集まっている人たちがすべて許容量のある人たちばかりではありません。むしろ、Sundayさんと同じような悩みを抱えている人がたくさん集まっているかも知れません。
しかし、教会の交わりの中で肯定的に自分自身を見つめ、交わりの中で人間として成長するときに、自分自身を向上させる自信も身につくようになるのではないでしょうか。
そこで今、祈るとすれば、何よりもまず自分が自分を受け入れることができるようにしてくださいと祈ってみてください。また神様が私を否定しているのではないと確信できるようにしてください、と祈ってみてください。きっと前に進む道が開けてくると確信しています。