2010年6月9日(水) 聖書には矛盾や誤りがある? ハンドルネーム改革派大好きさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・改革派大好きさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「ハンドルネーム・改革派大好きと申します。今は無牧中の教会に通わせて頂いております。改革派の教会員ではないのですが、一つお聞きしたいことがあります。
以前は福音派と言われる教会に行き、聖書は誤りの無い神のみことばと教えられ、聖書のみことばを信じで教会生活を送らせて頂いて来ました。ご質問をしたいのは以下のことですが、男子会の際にウェストミンスター大教理問答の聖書のみことばに関する所を学び、ウェストミンスターの述べること、聖書のみことばに対する信仰と姿勢はとても大変素晴らしいと感謝と感動を覚えました。しかし、その時同席していた巡回の牧師が聖書について解説を述べられました。
牧師が言うには確かにウェストミンスターにはそのような聖書に対する信頼が述べられているが、実は聖書には矛盾点があり、聖書を細かく調べていけば今まで信仰告白で言われていたような見解を取ることが出来ない、例えば、モーセ5書は書き方から言ってモーセが書いたものではなく、12の古文書が集められた古典的な宗教文書である、ルカ福音書もルカの名前を使った宗教文書と言えるとの話しがあり、モーセ5書や福音書を神のみことばとして否定した訳ではないのでしょうが、聖書に対する信頼を失わせるような発言がありました。
福音派に育って来たものとしては聖書学の高等批評的な聖書に対する見方はとても不安な思いを抱かせるのですが、改革派教会の牧師全てが聖書学では高等批評的な訓練方法で神学校で学んでおり、以前のような聖書は誤りのない純粋な神のみことばとは信じてはおられなくなっているのでしょうか。私自身は聖書学を専門的に学んだものではないので素人の判断ですが、その牧師の発言に大変ショックを受けまして山下先生にお聞きしたいと思いメールしました。ご指導を宜しくお願い申し上げます。」
改革派大好きさん、お久しぶりのご質問ありがとうございます。実は最近まったく同じような疑問を神学生から尋ねられたことがありました。その神学生も子供の頃からずっと聖書は誤りなき神の言葉であると信じる教会で育った方でした。神学校で聖書学を学ぶうちに、果たして聖書学の方法論で聖書を理解して、教会の礼拝で聖書を語ることが出来るのか、という疑問でした。
この聖書をめぐる問題は大変デリケートな問題で、きっとそれを語り始めたならば、議論が熱くなり過ぎて、まとまるものもまとまらなくなってしまうほど、大激論になってしまうだろうと思います。自分が信じていることを否定されることほど屈辱的なことはないからです。
おそらく、この番組を聴いていらっしゃる方も、ご自分の立場をある程度持っていらっしゃる方がほとんどだろうと思います。すでに聖書学と聖書をめぐる問題は100年以上も論争されていますから、自分がどういう立場にあるのかということは、それぞれ動かしがたいほど確信に近いものがあるはずです。この短い番組の時間の中で、あえて異なる立場の人たちに論争を挑むことは無用な混乱を招いてしまう可能性がありますから、聞かれたことだけを手短にお答えしたいと思います。
いただいたお便りには「聖書は誤りのない純粋な神のみことばとは信じてはおられなくなっているのでしょうか」とのご質問がありました。わたしの知る限りですが、「新旧両約聖書66巻が誤りなき神のことばである」ということを否定する牧師は今の日本キリスト改革派教会の中にはおりません。ただし、「誤りなき」ということが何を意味しているのか、どういう意味で「誤りなき神の言葉」であるのか、という説明を求められると、その理解に幅があることは否めないように思います。
改革派大好きさんのお便りによれば、「モーセ5書は書き方から言ってモーセが書いたものではない」とか「ルカ福音書もルカの名前を使った宗教文書と言える」という発言に、その牧師が聖書についてどういう考えを持っているのか疑問をもたれたようです。
おそらく短い時間の中で発言したコメントでしょうから、丁寧な説明が全くなかったのだと思われます。そんんな発言をいきなり耳にすれば、びっくりしてしまうのも無理はありません。
しかし、その牧師の発言の内容をよく確かめてみれば、必ずしも聖書が神の言葉であることを否定しているわけでもありませんし、聖書の権威を否定しているわけでもないようです。
この牧師が否定しているのは、モーセ5書の著者がモーセ自身であるという考えと、ルカ福音書がルカの手によって書かれたという考えです。果たしてモーセ5書がモーセによってすべて書かれたと、聖書自身がそう証言しているでしょうか。あるいはルカ福音書はルカが書いたと聖書自身がどこかで語っているでしょうか。聖書のそれぞれの文書の真実の著者が誰であるのか、という学問的な研究と、聖書が全体として霊感された神の言葉であるという信仰とは、必ずしも両立することができないものではないはずです。
ところで、「誤りなき」という言葉は、大変誤解をうみやすい言葉だと思います。「誤りがない」というからには「絶対に誤りが無い」と素朴に考えるかもしれません。
たとえば、「太陽は東から昇り、西に沈む」という文章は間違っているでしょうか。地球に住んでいる人間から見れば、それは正しい表現です。しかし、地動説にたった表現で書き表せば、太陽が昇ったり沈んだりしているのではなく、地球が動いているだけのことです。だから、「太陽は東から昇り、西に沈む」という表現は間違っているとも言えます。
あるいは「天の窓が閉じられたので、天のからの雨あはやんだ」(創世記8:2)という表現に出てくる「天の窓」は存在するのでしょうか。科学的な立場に立てば、「天の窓」から雨が降るという表現はナンセンスです。しかし、単なる比喩的な表現ととれば、天の窓の存在そのものを正しいとか間違っているとか判断すること自体が意味をなしません。
こういった類のことで、現代の科学では受け入れられない表現や世界像があったとしても、それを聖書の誤りとすることは全く意味のないことです。科学には科学の前提と方法があり、学問には学問の前提と方法があるのですから、聖書の記述と違う場合があるとしても、それを無理にどちらかに合わせようとする必要もないことです。
聖書には誤りがないというときに、通常考えられていることは、聖書が何かを語る目的との関連で、その内容に誤りがないということです。聖書は信仰と生活の基準として与えられたのですから、その目的のために記された内容に関しては絶対に誤りがないと信じています。
たとえば、聖書には「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」(1テモテ1:15)と記されています。この言葉にも誤りがあると考える牧師は一人もいないでしょう。
さて、たった10分ほどの限られた時間のなかでの説明でしたから、十分な理解を得られたとはわたしも思ってはいません。反対にかえって誤解に誤解を加えてしまったのではないかと恐れます。
機会が許されるなら、またいつかこの問題について丁寧に取り上げたいと思います。