2010年5月26日(水) 今もイエス様は見守っていますか? 和歌山県 ハンドルネーム・グリーンさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は和歌山県にお住まいのハンドルネーム・グリーンさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。
「質問ですが、イエス様は天国にいていつも私たちを見守っていてくださるのですか。約二千年前にお生まれになったイエス様は、現在の私たちの生活様式を御存じなのですか。例えばパソコンや携帯を使ったりする生活です。」
グリーンさん、いつも番組を聴いてくださってありがとうございます。お便りを読ませていただいて、このご質問の背景にはどんな思いがあるのだろうと、いろいろと想像いたしました。
ご質問は二つありますが、最初のご質問は、イエス様は天国にいていつも私たちを見守ってくださいますか、という内容です。
この質問を百人のクリスチャンに尋ねたとしたら、ほとんど全員が「はい、その通りです」と答えるだろうと思います。グリーンさんはそういう答えが返ってくることを予想して、お尋ねになっているのだと思いました。少なくとも、わたしの口から否定的な答えが返ってくるとは思っていらっしゃらないと思います。しかし、返ってくる答えが分かっていながら、あえてこの質問をしたのには、きっとその答えを受けて、その次におっしゃりたいことがあったのだと想像いたします。
答えを聞いて、「ほんとうにその通りです」とおっしゃるかもしれません。
家族の中で、あるいは自分の所属する地域社会や職場の中で、自分だけがクリスチャンで、まわりからキリスト教信仰について絶えず否定的な意見ばかり聞かせれている人にとっては、同じクリスチャン仲間が確信をもって信仰の言葉を表明するのを聞くのは心強いことです。その場合には「はい、その通りです」と答える仲間のクリスチャンの答えを聞くだけで満足なことと思います。そして、何よりも復活のイエス・キリストが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださった言葉に触れるならば、その信仰の確信はいっそう強まることでしょう。
あるいは、答えを聞いて、「では天国にいるイエス様がどのようにして地上にいる私たちを見守ることができるのですか」と、さらに答えの説明を求めるかもしれません。もちろん、確信を深めたいという純粋な動機から次の言葉を求めるときもあるでしょうし、逆に「そんなことはあり得ない」という反論がしたいために、そう尋ねる人もいるでしょう。
もし、反論のためのご質問であるとするならば、これはどこまでいっても平行線になってしまうと思います。
しかし、確信を深めたいためのご質問であるとするならば、説明は簡単だと思います。
それは、イエス・キリストはまことの人であると同時にまことの神でもあるからです。確かに「まことの人である」という御性質だけを取り上げれば今は地上にはおられません。しかし、神としての御性質によれば、片時も私たちを離れることはないからです。特にヨハネによる福音書14章16節以下で、イエス・キリストは弁護者である聖霊をお遣わしになり、この聖霊が私たちと共におり、私たちの内にいると約束してくださっています。イエス・キリストはまことの神として聖霊をお遣わしになり、聖霊において私たちと共にいて、私たちを見守ってくださるのです。
あるいはまた、ご質問の背景には、「それではどうして私にはこんなに苦しみが多いのですか」という現実の苦しみがあるのかもしれません。
そう思う気持ちの背景には、「イエス様が本当に見守ってくださるのなら、不幸や災いは自分の身にはおよばないはずだ」という考えがあるのだと思います。
確かにそういう考えもあるかもしれませんが、聖書はむしろ信仰者にも艱難や苦しみが襲うことがあることを語っています。だからこそ、イエス・キリストがいつも共にいてくださって私たちを守ってくださる必要があるのです。そして、だからこそ主の祈りの中で「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈り続けているのです。
「では、艱難や苦しみにあって、挫折してしまった人がいるのはどうしてですか」という疑問が出るかもしれません。現実にキリスト教信仰を離れたりする人がいるのも事実です。ではイエス・キリストの約束の言葉はウソだったということなのでしょうか。
信仰が挫折してしまったりするのはとても悲しい現実です。その現実を否定はできませんが、しかし、一時的なものなのか、永遠のものなのか、こればっかりは最後の審判ときまで人間にはわかりません。しかし、少なくともわたしたちが神になり代わってその人を今裁いてしまうことはできないと思うのです。イエス・キリストの守りと執り成しを信じて、その人の回復のために最大限祈りをささげるべきだと思います。また、自分で自分を見捨てられたと決めつけてしまうことも、やめにした方がよいと思います。それは結局イエス・キリストの言葉を疑うことだからです。
さて、もう一つのご質問は「約二千年前にお生まれになったイエス様は、現在の私たちの生活を御存じなのですか」ということです。具体的にはパソコンや携帯電話を使ったりする生活のことです。
これも、神の御性質をお持ちになったイエス・キリストですから、父なる神と同じように全知全能であることに変わりはありません。当然御存じのはずです。
先ほどと同じように、この質問を百人のクリスチャンに問えば、ほとんどのクリスチャンから「はい、イエス様は御存じです」と答えが返ってくるはずです。
そこで、先ほどと同じように、このご質問の背景にどんな思いが込められているのだろうか、と思いを巡らせてしまいます。特にパソコンや携帯電話のある生活のことを取り上げていますから、きっとその点に何かひっかかるところがあるのだろうと想像いたします。
パソコンや携帯電話が世界的に普及したのはこの15年ほどのことです。日本に限って言えば、単身世帯を除く二人以上の世帯への携帯電話の普及率は90%を超えています。同じくパソコンの世帯普及率は73%を超えています。それらを使ったインターネットの世帯普及率は90%を超えています。
固定電話が日本に入ってきて、世帯普及率が10%に達するのに70年かかったことと比べると、パソコンや携帯電話の普及率がどれほど急速なものであるかということがおわかりいただけると思います。
そうした急速な普及の恩恵で、世の中が非常に便利になった面を数え上げればいくつも挙げることができます。しかし、その反対に、携帯電話やインターネットが社会に害悪をもたらした例も枚挙にいとまがありません。
わたし自身の考えでは、携帯電話もインターネットも道具の一つにすぎません。道具それ自体が善であるとか悪であるというわけではないはずです。問題はその道具を使う人間の意図や目的が悪であるか、善であるかということなのだと思います。
そういう意味では、時代がどんなに代わっても、人間の悪い心はどんな時代にも表れてくるということなのではないかと考えています。
当然イエス・キリストは21世紀になっても人間の心から罪深い思いがなくならないことを御存じのはずです。そうであればこそ、携帯電話が普及し、インターネットが手軽に使える時代になっても、福音が宣べ伝えられることをイエス・キリストは願っていらっしゃるのではないでしょうか。