2010年4月28日(水) 人はほんとうに赦すことができるのか ハンドルネーム・tadaさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「ある教会の説教で、マタイによる福音書18章21節から35節の『赦すこと』をテーマにした内容を聞きました。人が隣人を赦すことに比べて、神様が人に与えている赦しが如何に大きいかということです。
しかし、もし、殺人鬼が、ある人の家族を皆殺しにして、なおも貪りを続けて、殺人を重ねようとしている時、またさらに、殺人鬼は『殺される方が悪い』と言っているとしたならば、イエス様が言われるように、人はこの殺人鬼を『赦せる』でしょうか?」
tadaさん、お便りありがとうございました。tadaさんからはいつもたくさんのご質問をいただいていますが、お便りを読んでいて、ときどき質問のポイントがどこにあるのだろうと思うことがあります。
きょうのご質問も、まさにポイントが掴みにくい類のご質問であると思いました。
と言いますのは、マタイによる福音書18章21節以下でイエス・キリストがお語りになっていらっしゃる「赦し」についての教えと、tadaさんが問題にしていらっしゃるケースとでは明らかに前提が違うからです。もし、tadaさんが前提の違いにお気づきになっていらっしゃらないでご質問されているのだとしたら、答えは簡単です。
イエス・キリストが「7を70倍するまでも赦しなさい」とおっしゃったのは、あくまでも自分の罪を認め、悔い改めの意志を表して赦してほしいと願う者に対してであることは明らかです。
そもそもペトロがマタイ福音書18章21節で「兄弟がわたしに対して罪を犯したら何回赦すべきでしょうか」と質問したのは、その直前の18章15節以下のキリストの教えを受けてのことです。
そこでは、罪を犯した兄弟をどのように赦して受け入れるべきか、その手順が記されています。その場合、どんな時にも兄弟を赦して受け入れるようにとはおっしゃいませんでした。まずは罪を罪として告げて、忠告するようにと求めていらっしゃいます。その忠告を認めて受け入れるならば、そこで赦しが成立します。
キリストがおっしゃる「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とは、そういう意味です。
しかし、もし忠告を聞き入れてくれないからといって、それですぐに赦さなくてもよい、というのがキリストの教えではありません。さらに、別の人を連れて行って、悔い改めを勧める努力をするようにと教えています。
もちろん、別の人を連れていくのは、悔い改めを勧めるという目的のためばかりではありません。よくよく確かめてみれば、冤罪であったということを防ぐためでもあります。当然人はしていない罪を悔い改めることはできません。
さて、ペトロが問題としているのは、一度は悔い改めても、また罪を繰り返す人の場合です。もちろん、七回も同じことを繰り返せば、本人が言う「悔い改めます」という言葉自体が信用できなくなるようなケースです。しかし、それでも本人が自分の罪を認めて赦されることを願うのであれば、赦しなさいというのがキリストの教えです。
つまり、tadaさんが挙げた殺人鬼のケースとは明らかに違います。罪を罪として認めず、悔い改める意志もない人を、キリストは赦すようにとはお命じなってはいません。
tadaさんが、その前提の違いにお気づきにならないで、このご質問をなさっているのだとしたら、答えは以上の通りです。
しかし、今までたくさんいただいたtadaさんのお便りから考えて、tadaさんがその前提の違いを見落とすような人ではないことは、よく承知しています。もし、前提が違うにも関わらず、あえてこのような質問をされているとすれば、一体どんな問題提起をしようとされているのか、そのことが掴みきれずに答えに困ってしまっています。
この際、イエス・キリストの言葉を完全に脇へ置いて考えるとしたら、どういうことになるのでしょうか。
罪を罪とも認めず、その行いを止めようともせず、おまけに罪の責任を被害者の側にあると言ってやまない人を、わたしが赦せるかどうか、という質問だとして考えてみることにします。
まず、その場合、その人を「ゆるす」ということが何を意味するのか、ということが問題です。その人の行動を許可するという意味では、今も今後も決してそのような犯罪行為をわたしは許しません。あらゆる正当な手段を使って行動を阻止するでしょうし、そのような行動を非難するでしょう。
しかし、「ゆるす」ということが「過去の出来事を忘れることだ」という意味であるならば、できるだけ早く忌まわしい思い出を忘れて、そこから解放されたいと願います。特にわたしやわたしの家族や友人知人が、その人の犯罪の被害者であるならば、憎しんだり恨んだりする思いから解放されて、一日も早く平安な気持ちで日々を過ごしたいと願います。
もちろん、そのことと、このような犯罪が放置されることとは別の話です。
あるいは「ゆるす」ということが、「相手に憐れみをかける」ということであるとすれば、場合によっては、素直にそう思うこともあります。イエス・キリストは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」とおっしゃいましたが、本当に自分が何をしているのか分かっていない相手であるのなら、怒りに燃える思いよりも、憐れに思う気持ちが先に立ってしまいます。それを「ゆるし」というなら、場合によってはゆるす気持ちになることができます。
では、その犯罪者が、ある日、罪を悔い改めて、自分と同じ教会で礼拝を守るようにうなったらどうでしょうか。他の人に対するのと同じようにその人と接することができるかどうか、その人を心から受け入れることができるかどうか、今のわたしには仮定の話では何ともお返事のしようもありません。
どうすべきかはわかっています。しかし、自分の心が素直にその人を主にある兄弟として受け入れることができないかもしれません。あるいは、時の流れが問題を解決してくれるかもしれません。あるいは、その人が悔い改めている姿を見て、思いもかけず心から受け入れる気持ちになれかもしれません。しかし、今、そのことを想像してみることに、どれだけの意味があるのでしょうか。
しかし、tadaさんのご質問が、まさに今tadaさんが直面している状況そのものであるとしたら、その犯罪人を赦せないと思うtadaさんのお気持ちは当然のことだと思います。当然どころか、被害が他へ及ばないように、できる限りの手立てを講じるべきだとも思います。