2010年4月7日(水) 教会の活動は教会のためですか? ハンドルネーム・悩める子羊さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。
それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・悩める子羊さんからのご質問です。お便りをご紹介します。
「山下先生に質問というか話を聞いてもらいたいことがあり、メールしました。自分自身がどういうスタンスで教会生活や信仰生活を送るべきなのか、心が定まっていないというのが正直なところです。
実は教会の活動や伝道について、たくさんの疑問がわたしの心の中にあります。ただ、教会の礼拝に通うことに関しては少しの疑問もありません。礼拝で語られる御言葉の解き明かしに教えられ、力をいただいて再びこの世に遣わされることを強く感じているからです。
問題はそこから先の部分です。力をいただいて再びこの世に遣わされて行くのですが、わたしはいったいこの世で何をするのでしょうか。世俗の仕事をしてお金を稼いで、自分と家族と教会を支える、その繰り返しでよいのでしょうか。と言って他に何かをするといっても大きなことは出来そうもありません。
もちろん、教会のために時間や能力はできる限りささげたいとも考えています。ただ、教会のためにというのは、結局どういうことなのだろうと思ってしまうのです。教会を維持するために伝道を一生懸命するということなのでしょうか。
しかし、教会は教会を維持するために伝道し、伝道を通して生まれた信徒はまた教会を維持して伝道を繰り返す、というのも何か腑に落ちないような気がするのです。
へ理屈のように聞こえるかもしれませんが、そんなことで最近自分自身が分からなくなっています。何かよきアドバイスをください。よろしくお願いします。」
悩める子羊さん、お便りありがとうございました。へ理屈のように聞こえるかもしれないとご自分ではおっしゃっていますが、そこまで真剣に教会について、伝道について考えていらっしゃることは素晴らしいことだと思います。ただ、考えるだけで立ち止まったままでは前に進むことができません。どう一歩を踏み出したらよいのか、そこが悩める子羊さんの悩みということなのだと思います。
さて、悩める子羊さんが抱えていらっしゃる疑問は、掘り下げて考えていけば様々な問題にかかわってくるように思います。そして、一つ一つの問題がそれ自体大きなテーマを含んでいます。
教会とは何か。伝道とは何か。信徒はこの世でどうあるべきなのか。この世での仕事の持つ意味は何か。挙げていけばきりがありません。それらのテーマを一度に取り上げて話すことは、とてもこの短い時間では出来そうもありません。短い時間と言ったのは、この放送時間ということもありますが、わたしたちの生きている時間の短さということもあるように思います。
神の側には答えがあるのでしょうけれども、それを受け止める人間の側には長い思索の時間が必要なように思われます。そして、長い思索の時間の間、結論がでるまで教会の活動をストップさせるということはできません。不完全なままで考えつつ歩んでいくよりほかはないのだと思います。
聖書の中で、教会はキリストの体に例えられて、あたかも有機体のように考えられています。それは一人の人間と比べることができると思います。
一人の人間が自分の生きる目的について考え、答えを見出すのには時間がかかるものです。しかし、それまでの間、何も活動をしないという人はいません。少なくとも、自分の生命を維持するために、食べたり飲んだりします。あるいは、目的が明確ではなくても、知識を吸収してためていきます。そういう活動をしながら、生きる目的を見出していくのが人間の歩みです。
教会とは何か、教会の目的は何か、ということも、それがわかるまで、何もしない方がよいということはないはずです。もちろん、教会は神ご自身がお造りになったものですから、神ご自身は教会が何であるか、何を目的としているかご存じのはずです。そして、聖書を通してそのことをお語りになっていらっしゃるはずです。
ただ、残念なことに、その聖書をどう読んで教会というものの存在や目的をどう理解するのかということに関して、わたしたちの側に様々な見方があるということです。またそのためにわたしたちの中で混乱が起こっているというのも事実だと思います。
これからわたしが述べることも、一つの見方として、参考にしていただけたらと思います。結論はやはり悩める子羊さんご自身が納得して出すよりほかはありません。
さて、悩める子羊さんが抱えていらっしゃる一つの問題は、「教会は伝道するために存在し、伝道は教会を支えるためにある」と思えてきてしまうことへの疑問ではないかと思います。
教会の中で伝道や教会の将来について議論されるときに、このままの人数では教会が弱体化してしまうから、という危機感が議論の発端になっていることがしばしばあるのではないでしょうか。そのために、余計に「教会は伝道するために存在し、伝道は教会を支えるためにある」と感じられるのではないかと思います。
教会が教会を維持していくために、そのためだけに伝道をしているのだとしたら、それは意味がないことです。地上の教会の人数を増やし、地上の教会が経済的に豊かになることが教会の目的だとしたら、それは教会自身が教会の目的になってしまっています。
あえて「地上の」教会と言わせていただきましたが、教会というものを考えるとき、それは地上にだけあるものではありません。また目に見える教会だけが教会ではありません。聖書が語る教会は、もっと広い概念です。過去と現在と未来とを通して存在する教会、また、天上と地上とにわたって存在する教会をすべて含めて一つの教会として聖書は意識しています。そうした広い教会の姿から切り離して、この地上にある教会の問題にだけ目を注いでいる姿勢にも大きな問題があるように思います。
もちろん、わたしたちが今かかわることができるのは、この地上の目に見える教会です。そして、伝道の主体もこの地上の教会であるというのも間違いありません。そして、この伝道に関しては、一方ではマタイ福音書の28章に記された主イエス・キリストの命令があります。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」
この命令を受けて教会は一生懸命伝道しています
そして、他方では、「隣り人を愛せよ」というイエス・キリストの教えがあります。
この二つは決して矛盾したり対立したりするものではありません。伝道は決して教会を維持することが伝道の動機でも目的でもありません。そうではなく、隣人への愛こそが、人々をキリストのもとへと導く動機です。隣人を愛すればこそ、救いの主であるイエス・キリストのもとへと人々を連れてくるのであって、教会の勢力を増すためにそうしているのではありません。
では、教会員がこの世に置かれているのは、伝道のためでしょうか。キリストの愛をもって隣人を愛するという意味では、確かにそうかもしれません。キリストの愛をどこまで実践できるかどうかは別として、そうあることを願ってこの世で生きるようにと遣わされているのだと思います。
そして、この世にあっては、職業を通して、結果として報酬をいただき、その報酬で自分と家族と教会の経済的な必要を支えるというのも事実です。しかし、それが職業の目的かというとそうではないはずです。職業を通して隣人に仕え、神から与えられた世界に奉仕すること、言い換えれば職業を通して神と隣人に仕えることが、職業の目指すところであるはずです。そのように考えて生きるときに、教会での礼拝とこの世での生活がもっと生き生きとつながってくるのではないでしょうか。