2010年3月31日(水) 宗教か習俗か? ハンドルネーム・曲げられないNさん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・曲げられないNさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「先日、最高裁で神社が無料で公の土地を使用してきたことについて、違憲の判決が出ました。わたしは良かったと思います。憲法学者もこの判決を支持していました。
その時のニュースによれば全国に同じようなケースが1000件くらいあるとのことでした。
宗教と習俗について教えてください。神社は宗教ではないと考える日本人は多いのではないですか。」

曲げられないNさん、お便りありがとうございました。ほとんどのクリスチャンにとっては、今回の最高裁判決は当然のことと受け止められたのではないかと思います。しかし、わたしもその日のニュースをみましたが、街頭でのインタビューなどでは、この日の判決を釈然としない思いで受け止めていた人たちも多くいたようです。釈然としない思いを抱いた人たちがあげる理由の一つは、いただいたお便りの中にも出てきたように、神道を宗教とは思わない素朴な気持ちによるもののようです。

さて、蛇足になるかもしれませんが、今回の事件と判決について、簡単に触れておきたいと思います。今回の事件は北海道砂川市が所有する土地を空知太(そらちぶと)神社の敷地として無償で提供していることが、憲法が定める政教分離の原則に反するかどうかが争われた事件です。
結論からいうと、最高裁大法廷はこの土地の無償提供を「特定の宗教を援助していると評価されてもやむを得ない」として、憲法に違反していると判断しました。しかし、この憲法違反の状態を解消するために、ただちに宗教施設を市の所有地から撤去し、土地を明け渡すべきであるという考えは、違憲状態を解消する唯一の方法ではないと判断し、その点についてもう一度審理を尽くすようにと本件を差し戻しした、というものでした。

実は最高裁判所で扱った政教分離に関する訴訟は、今までに11件ありましたが、違憲とする判断が示されたのは、1997年の愛媛玉ぐし料訴訟判決以来、今回が二件目です。つまり、過去の事例で国や地方公共団体が政教分離の原則に抵触するようなことを行ったと認められる事件はほとんどなかったということです。

では、最高裁判所は何を基準として、ある行為を宗教的行為と判断し、憲法の定める政教分離の原則に国や地方公共団体が抵触したと結論づけるのでしょうか。
この点に関しては、1977年に下された津地鎮祭訴訟の判決にうたわれている「目的効果基準」というものが判断の基準として大きな影響をもつようになりました。つまり、「行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる」か否かをもって、判断するというものです。
政教分離とは国家と宗教の完全分離ではなく、ある行為の目的や効果から判断して、それが相当な限度を超える場合に限り、政教分離の原則に反していると判断されるというものです。

確かに国家と宗教を完全に切り離すことは不可能かもしれません。その意味では「目的効果基準」は一定の判断基準として有効に用いられる基準であると思います。しかし、個々のケースにあてはめるときに、その行為の目的が宗教的意義を持っているのかいないのか、その行為の効果が宗教を援助したり、助長したり、促進したりすることにはならないのかどうか、そうした判断自体が決して簡単ではないということです。

ところで、今回の判決では「目的効果基準」とは別の基準が示されました。相当とされる限度を超えて政教分離の原則に違反するかどうかの判断は、その宗教的施設の性格やその土地が無償でその施設の敷地として提供されるに至った経緯、その無償提供の態様など、「これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である」としました。
「一般人の評価等を考慮する」とありますが、何が一般人の評価なのか、それ自体があいまいな表現であるようにも感じられます。

さて、話がずいぶんと横道にそれてしまいました。ご質問は「宗教と習俗」について、また「神社は宗教ではないと考える日本人が多い」ことについて、ということでしょうか。

まずは「神社は宗教ではないと考える日本人が多い」ということについて取り上げたいと思います。
実際にそう思う人が日本人に多いのか少ないのか、これは統計をとってみないことにはわかりません。確かに多そうな気もしますが、実際のところはどうなのでしょう。
ただ多いか少ないかの問題よりも、「神社は宗教ではない」と考える人たちが、では神社とは何かということをどうとらえているのか、そこが大きな問題であるようにも思います。これにはわたしが知る限りで二通りの答えがあるように思います。一つは神社には特定の教義があるわけではないので、宗教というよりは習俗に近いと考える立場です。
もう一つの考えは、神社は宗教を超えたものであると考える立場です。今でも神社は超宗教であると考える人がどれくらいいるのかはわかりませんが、少なくとも、先の大戦のときにはそういう考えをもった人が大勢いました。特にキリスト教会が神社参拝や宮城遥拝を宗教上の理由で拒むときに、神社は宗教ではないからという理由で、強要されることが多々ありました。その場合の「神社は宗教にあらず」という意味は、神社は習俗にすぎないと言う意味では決してなく、むしろ、神社は宗教を超えた国家の祭祀であって、日本人ならば国民の義務としてそれを守るべきであるとする考えです。
日本国憲法が信教の自由と政教の分離の原則をうたっているのは、それが人類に共通した知恵であるというばかりではなく、日本のかつての国家神道がもたらした様々な事柄を反省してのことである、という点もけっして忘れてはならないことだと思います。
「神社は習俗だ」と思う素朴な考えを持つことそれ自体を否定することはできません。しかし、その素朴な思いが信教の自由を侵害させる機会を国家に与えてしまった、という過去の失敗から学び続けなければならないのだと思います。

最後に「宗教と習俗」の問題ですが、広辞苑で「習俗」を引くと「社会のならわし。風習。風俗。また、生活様式。」と記されています。習俗として知られていることのすべてが宗教的な起源があることとは限りませんが、もとをただせば宗教的な行為に由来する習俗はたくさんあります。クリスチャンにとっての問題は、宗教的な起源が知られているすべての習俗を信仰上の理由で拒絶すべきなのか、それとも宗教色がほとんどなくなるまでに世俗化された習俗は頑なに拒絶する必要がないのか、ということだと思います。
この問題に関しては、自分自身の信仰的な良心に従って行動をとるべきという以外に言うべきことはありません。それと、もう一つは、たとえ自分の良心に恥じないとしても、他者をつまずかせてまでなすべきことというのはそう多くはない、という原則です。この二つの原則をしっかりと守っていれば、自分自身の行動の原理として「宗教と習俗」の問題でそれほど悩むことはなくなるのではないかと思います。